LIVEPOEMS Part 2より

秋がきた

秋がきた
秋はぼくの好きな季節だ
しかしほんとうに秋がきてみると
ぼくはほんとうに秋が好きだったのだろうか
と思う
しかし自信をもって言おう
秋はぼくの好きな季節だ
この秋がどのようになってしまっても
秋はぼくの好きな季節だ

かかってこい世界の一部よ

ちいさなものは
つまさきで
そそそとよけて
つねに
おおきなものにたいして
ちがうよ
ちがうよ
といいつづけること
それがぼくのストーリーだ

想像

今やっていること
今起きていること
以外は
すべて想像のなかにある
そして
今やっていること
今起きていることも
想像の子宮のなかで
息づいているのだとしたら

LIVEPOEMS Part 1より

いつでも詩人

紙もペンも
スマホもいらない

情報

情報はどこにもありませんでした
ネット上にも
本の中にも
街の中にも
友だちとの会話の中にも

ぼくは目がいたくなって
泣きました
情報はすでに燃えつきて
いたのでした

暇を楽しむ方法

もしあなたが今
暇だとかんじているのなら
その暇はうすめずに楽しむとよい

うそをついて本当のことを言え

うそをついて生き延びる
本当のことを言って死ぬ
自分にうそをついて周りには
本当のことを言う
周りにはうそをついて
自分には本当のことを言う
全ていけない
どれでもよい

形のない覚悟

小学5年生のときだったと思う

理科の先生にぼくらはつめよった

「どうしたら精子と卵子が合体するのですか」

先生はぼくらに逆に

「どうしたら合体すると思う?」

ときいた

ぼくらはない知恵をしぼって

アレコレ挙げた

どれも違うらしい

ぼくらは先生に懇願した

先生は黒板にちんこの絵を描いた

ぼくらは真実をきいてざわついた

女子は

きもーい

と言った

男子は

黙っていた

先生は言った

いつかそうしてもいいと思う相手がみつかるよ

あれから大分経った

ぼくは思う

あのひとになら

乳首を取られてもいい

あのひとのためなら

ちんこを切ってもいい

そんなひとがみつかるのだろうか

最近のわたしのアニメ事情

〜「マクロス」から「アンダルシアの夏」まで〜

アニメを見ているとき、わたしはわたしが孤独であったことを忘れる

たまに熱心にアニメを見ることがある。そういうときは、つかれているときなのかもしれないし、欲望のやり場がないときなのかもしれないし、現実から逃れたいときのなのかもしれない。あるいは、平凡なときなのかもしれない。

さて、わたしにとってアニメといえば、「新世紀エヴァンゲリオン」である。そのため、わたしがアニメを見る際には、どのようにしてアニメというものが「新世紀エヴァンゲリオン」に至るかという過程を気にする。そんなわけでわたしは古いロボットアニメを見ることが多い。「マクロス」についても、エヴァの庵野監督が「トップをねらえ!」のインタビューで「マクロス」について言及していたので気になっていたから手にとってみた。

さて、「超時空要塞マクロス」の第一印象は、絵が古めかしい、というものだった。なにしろ1982年の作品である。とはいえ、ストーリーが進むにつれ、その印象は払しょくされていった。「マクロス」は第一にヒューマンドラマである。キャラクターの表情は、なかなかにゆたかである。もちろん、アニメとは省略の芸術であるから、その記号的手法がうまく機能しているのだともいえるが、特に早瀬未沙とリン・ミンメイの表情からくみとれるものは多いのだ。

そう、「マクロス」は宇宙戦争モノであると同時に、恋愛モノでもあるのだった。それも最後まで三角関係なのである。最初は主人公の輝がミンメイに振り回されるのだが、終盤は輝が2人のヒロインを振り回すのである。正直、ハッピーエンドなのかわからない。もちろん、感動的なシーンはいくつもある。しかし、主人公とヒロインたちとの気持ちの行き違いがしばしば、(もしかしたら最後まで)生じるのである。それでも、「マクロス」は心温まる物語だと思う。きっと、恋愛とはその過程が楽しいのだ。

すこし感傷的になってしまい、マクロスワールドにドはまりしそうだったので、気になっていた「茄子 アンダルシアの夏」を見た。自転車レースのアニメである。スペイン一周レースが舞台だ。わたし自身、自転車ファンということもあり、ぐいぐい引き込まれ、主人公のペペに感情移入した。ペペは、ついていないやつかもしれない。だが、ペペは、結局、自分の運命をひとのせいにはしない。ペペは、ペペなりに、たたかう。その姿勢が清々しかった。

ついつい自分を、自分の幸せ具合をステータス化したがるのが人間というものだ。きっと、自分は、幸せでも不幸せでもない。瞬間瞬間に、ステータスなどない。あるのは、気持ちの流れだけだ。

キング・オブ・トイレット

マイケル・ジャクソンがキング・オブ・ポップであるように、荒木一夫はキング・オブ・トイレットである。トイレの王者である。ぼくほどまでにトイレットプロブレムを抱えているひとを他に知らない。ちなみに得意分野は下痢だ。

ただお腹がいたくなるだけならまだいいのだが、問題はサイクリング中に起こるやつだ。ぼくは数々の苦いレコードを所持しているが、今日もまたレコードに加わる苦行を経験した。

おそらく今日はかなり暑かったのだろうと思う。8時ごろ自宅を出発し、市内を通り抜け、名草から藤坂峠、続けて長石峠を上った。上りながら水を飲まないときつい感じがした。長石のてっぺんで少し休んでから、桐生の梅田ダムへ下る。

梅田から更に山を下り、コンビニで休憩した。ここまではそれほど体調は悪くなかったが、このあと白葉峠を上るところで汗が吹き出て気分が悪くなってきた。太陽がギンギンに照りつけている。山に入れば涼しくはなるが、当然体には負担だ。

白葉を過ぎ、更に猪子トンネルへ向かった。再び上り。いつもの調子は出ないが、まぁなんとかいけるかなと思っていた。トンネルを通過し、深高山の上りにアプローチする。本日4本目の上りである。斜度もけっこうきつい。

いよいよ気持ち悪く、トイレに行きたいと思った。思ったというか事実としてトイレに行きたかった。下りはそろそろと下り、予定ではもう1本峠へ行きところだったが、それどころではなくまっすぐ下って葉鹿方面へ急いだ。

葉鹿のコンビニでトイレに駆け込む。結局2回行った。相変わらずの好天でとにかく暑い。走り始めたが、坂をひとつ越えただけですぐまたお腹がいたみだし、ワナワナしながらまたコンビニに避難した。ここでも2回トイレに行った。軒先の日陰でポカリをなめた。

その後はなんとなく走れるようになり、13時ごろ帰宅できた。ひどい疲労感ですぐ横になり、16時まで昼寝した。今はなんとか起きてコーラを呑みながら記事を書いている。

下痢なんて大嫌いだ。だが、時にカラダの毒抜きも必要だ。無事帰れたこと、家でのんびりできることに感謝しよう。

おぐら屋ラン

おぐら屋ランとは、栃木県佐野市にあるラーメン店、おぐら屋を通過するサイクリングコースのことで、1時間半から2時間くらいで走りきれるため、最近チョイ練でわたしがよく通っている。

さて、15時すぎから走り始め、少しコースにプラスをしたのち、17時半前に帰宅した。そこから執筆をしようと再び街中へ向かったのだが、目当てのカフェが閉まっており、結局朝倉町のハンバーガー店に避難したのだった。

交差点向かいの酒屋さんを眺めながら、今夜は酒を吞もう、などと思いながらフリック入力で記事を書いている。ちなみにわたしはキーボードフェチなので、フリックは苦手だ。

平和な土曜日なのかもしれない。昼まで寝ていたくらいだ。夕飯ファストのために今週は弱り気味だったが、今日は普通に腕立てもできた。

なんのために生きるのか、そんなことは知らない。無理に生きようとも、無理に死のうとも思わない。さて、来店者が増えてきた。みんな夕飯どきだ。

元気じゃないから元気さ

自宅近くの中華屋さんに来ている。ぼくは夕飯を食べるのだ。ビールも呑むぞ。

帰ったらマクロスを観て、寝る。ここのところしょうもない生活を送っているが、調子が落ち気味なのでこれが精いっぱいだ。

食事に制限をかけることで、うつ気味が解消するかなーと愚かにも思いがちだが、結局、「これ以上追い込んだらいよいよウツだ」と気づくだけである。

相対的元気、相対的元気、いつも相対的元気である。