On the edge

佐野のファミレスJにいる。時刻はまもなく21時。いちにちは短い。

昨日は疲れていたので、自宅でお酒を呑んでだらけたあと、そのまま寝てしまった。

今日の昼間の体調はまずまずだったが、ここへきて頭が重い。風邪やインフルエンザが流行しており、自分がかからないともかぎらない。冬は生きるだけでも大変だ。

なぜ佐野にいるのだろう。なにかいいものを食べて体力をつけようと思ったのだろう。ねむい。明日仕事か。信じられない。信じたくない。明日の自分が別人になっていたら信じよう。

生きるってなんだろう。とこのように思うときは大して生きる気がないときだ。いつから人類は生きるということを特別視するようになったのだろうか。今世。来世。前世。生きるも生きないも、究極的には同一なのだ。有るか無いかは、ともに有る、そしてともに無い。生きるということはただ、生きているふりをしているということなのだ。生まれるふり。死ぬふり。本当はぼくらはずっと生きている。本当はぼくらはずっと死んでいる。

「ねぇ、見えない愛ってあるの?それってどんな感じ?」

呑むべきか呑まぬべきか、読むべきか読まぬべきか、愛すべきか愛さぬべきか。

「きみはべきで生きられるの?きみは生きるべきなの?」

Laissez moi tranquille. ぼくは考えているふりをしているだけ。生きがい?たまたま生き続けているだけさ。欲望?あるけどない。ただ、ただ、なるべく全力を尽くすだけ。あなたが振り向くかどうかとか、関係ない。振り向きたかったら振り向いたらいい。

偶然に賭けている、かもしれない。だから平気で回り道を通ろう。うっかり幸運に遭遇するかもしれない。なにを探しているのだろう。やっぱり、感動、なのかな。

Yes, I’m going to Fukushima

ちょうど宇都宮駅を発つところだ。天気は晴れ。ふつうに寒い。これから二本松に行き、それから福島市を目指す。徒歩旅行の最終ステージである。

今回で9回目の遠征となるのだろうか。前回到達点まで電車で行き、歩いてたどり着けるところまで行ってまた電車で戻るというスタイルでやってきた。徒歩は完全にモバイルな移動手段だからこういうことが可能だ。遠くに来れば来るほどに、電車の移動時間と交通費が増える。足利からだと福島が限界な気がする。在来線で片道約4時間だ。往復で8時間。現地での活動は6時間程度となる。

連泊すればよいのではという意見もありそうだが、わたしは足に軽い持病があり、歩くのは丸一日が限界だ。その後しばらく休む必要がある。冬にこんなことをしているのは、足の皮膚が比較的乾燥しており、マメができにくいからだ。また、往復の交通費を考えても、日帰りのほうが泊まるより安いということもある。日帰りは慌しいと感じることもあるが、日常をブレイクするのに、この日帰りウォークはちょうどいい。

朝日が車内を照らす。宇都宮駅以北の駅名もなんとなく覚えてしまった。寒いなか人家の少ない道路を歩くのは、わるくないと思っている。とくべつ楽しいわけではないけれど、落ち着くのだ。本当のことがよく見える気がする。逆に言えばつまらないことは洗い流される。シンプル。生きて帰ること。そのなかで自分の行きたい場所へ行くこと。景色をながめること。好きな人の顔を思い浮かべること。近いうちにやってみたいことを醸造すること。

なんかもう旅の電車に乗っているだけで十分な気がしてくる。朝はいいな。普段なら皿洗いでもしているところだろう。朝日の祝福。ありがと。

歩く。リズムを刻む。同時にぼくはぶちのめされていく。勝つか負けるかでいえばぼくは負ける。歩けなくなる。歩けなくなったとき、なお心洗われた気持ちであるならば、それはつまり心が洗われたということなのだ。

自己肯定感の低下

なんじゃそりゃ、という感じだ。もう電気の走らないカーペットの上にすわり、正座してひざかけをかけ、ノートパソコンをひらく。

昨日父親の契約していたWi-Fiが切れた、というより父親が解約した。わたしは、自宅ではたぶんここ3年くらいそのWi-Fiに頼ってほそぼそとネットをしていた。料金は父親が払っていたので、わたしはただで使わせてもらっていたのだが、ちょうど更新の時期となり、父がわたしの通信料を肩代わりする理由も特にないので、父は電話口でさんざん待たされた挙句に契約を解除した。これまでありがとうございました。

わたしはルータに電波が来なくなったことを見届け、その日の夕方、瞬発的に伊勢崎のスマーク(ショッピングモール)に行き、Wi-Fiを契約して新しいルータを持ち帰ってきた。毎月4千円強の出費となる。ネットなしの生活も悪くはないと思うが、わたしはネットが好きなので、甘んじて受け入れることにする。クリエイティブな作業に充てられればなおよい。

自由とはつまり未決定のことを指すのだろうか。わたしの心はいよいよ未拘束である。たぶんなにを考えてもいいのだと思う。茫漠としている。わたしは折にふれてたばこを吸い、そのたびに自分などクズだと思う。たぶんそんなことはない。が、いっそのことクズになってしまえと思う。

「なにをしたらいいのかわからない」

そうだよなぁと思う。この疑問は苦しい。わたしはさっきウイスキーを呑んだが、この疑問に答えることはできない。玄関の花が少しずつ背を曲げていく。毎週新しいお花を飾ったらいいんじゃないかと思う。お客が来るかどうかは関係ない。自分が花がほしいと思ったら花を生けてみるのだ。

わたしは思うのだが、「なにをしたらいいのかわからない」頭にはしばらく休んでもらえばいい。わたしはそう考えながら、しかしなにかしらを日々成している。気にすることはない。たばこの本数も、酒を呑む回数も、いずれ収まるだろう。生にしがみつく必要はないが、死を熱望する必要もない。わたしは近頃、自分が死にたいと思ったとき、「あ、これは自分の十八番のネタだ」と思うようになった。自殺願望、それはわたしの脳内アートなのだ。死そのものは、わたしの手には負えないものだ。必要なときに向こうから来てもらえればそれでいい。わたしがわざわざ呼び寄せる必要はない。ま、密かに待ってはいるけれど。

実らぬ恋、と書いたところでこれまた自分のネタなのではないかという思いに至る。すべての恋愛は深刻なジョークなのだろうか。わたしはそろそろ恋愛3.0に進みたい。わたしに恋愛は無理だ。わたしは恋愛にあこがれているにすぎない。決してたどり着けない恋。ならばわたしは行かねばならない。「なにをしたらいいのかわからない」

やっぱり寒いね。酒を呑んでもあたたまらない。暖房をつければ解決するのだろうか。大体解決するだろう。わたしはしかし、自分で自分に暖房をつけることを禁じているのだ。ばかである。世の中に対してすねているのかもしれない。「誰もぼくのことを気にかけてくれないなら、ぼくはぼくの部屋で凍えてやろう。ぼくの心の寒さは、おまえたちにはわかりはしない。ええい、ほうっておいてくれ。ぼくはあたためる価値のない人間だ。死にたくはないさ。しかしきみこそ、冬の寒さを知らずに死ぬつもりかい?いやいや、大事なのは温度計で見える寒さじゃない。氷の張った心の湖の深淵さ。きみはそれをのぞきこんだことがあるのか。」

「ぼくは、好きじゃない、なにも」

「ぼくは、だれにも、見放される」

風が鎧戸をたたく。わたしはなにを肯定したらいいのかわからない。わたしはなにを頼ればいいのだろう。わたしは、よくこれまで生きてきた。今もよく生きている。これからも、よく生きていく、かもしれない。わたしの価値はわたしではないひとかわたしではないものに決めてもらいたい。

わたしは、あなたに会えそうもないので、あなたのことを考えながら眠りにつきます。

たったひとりでもいきていく

「努力した結果の成功体験なんてない。努力がそのまま成功体験なんじゃないの?」

電気カーペットがこわれてしまった。こわれたカーペットのうえでパソコンを開く。思いのほか外は寒さがゆるみ、部屋のなかはまあまあ過ごせる感じだ。春は遠くない、かもしれない。

今夜は会社の新年会があり、定時になってすぐ帰った。ギターの直前練習をしようと思ったのもつかのま、たいへんな腹痛に襲われ、トイレにかけこんだ。お得意の下痢である。お腹のなかは見事に洗浄された。3分ほど横たわる。会社での集合時間が近づく。ギターを背負って自転車に乗り、夕闇のなか事務所へ戻った。すでにバス利用者は全員集合済み。点呼をとり、会場へ向かった。

おとなしい夜景を見ながらの会食。ぼくはお腹の調子を案じ、演奏の前には飲むまいと決めた。わりとすぐ自分の番が来てしまった。本当は12番まである曲なのだけれど、6番まで歌って途中で歌詞を忘れて止まってしまい、退場となった。あっけなかった。まるで自転車のレースのようだ。ぼくは手を抜いた覚えはないのだが。観客心理からすればフレンチポップも指弾きのギターもあまり面白くなかったのかもしれない。ぼくの自己満足だったのだろうか(満足しているわけではないけれど)。

その後、ウイスキーをストレートで1杯だけ吞んだ。昨年同じ会にてウイスキーを飲み過ぎてぐでんぐでんに酔ったことを思い出し、無理に飲むことは控えた。コップは空にしたほうが気分がいいが、全部飲む必要はない。体調がなにより優先である。今日は1杯で十分だった。

「もうちょっと練習をして」という声もあり、それはそのとおりではあるが、「一生懸命やってこれなんだよ」という感じも自分ではしている。要するに向き不向きあるのだ。自分では向き不向きと上手下手はどうでもいいと思っていて、好き嫌いと続くか続かないかのほうが重要だと思っている。

たったひとりでもいきていく。たったひとりでもギターを弾く。たぶん、たったひとりでも○○する、というのが大事なんじゃないかと思う。孤独の友は空白だが、空白のなにもなさになにもない充実を感じられるかどうか。ぼくは愛とは想像力だと思っている。

人並へのぼんやりとしたあこがれ。人並という考え方も、それへのあこがれも、要らないと思われる。まず自分の人生を見ろよと思う。なにか大きなことを成し遂げなければならないということはない。奇跡とは奇跡でない。きっと奇跡を受け入れる覚悟を決めるべきなのだ。よろこんでみようと思うひとのもとによろこびは訪れるのではないだろうか。あくまで自分の目線でかまわない。かまわないが、きっかけはなんであれ、自分の目線を棄却するときに、この世の輝きの片鱗を目にするのではないのだろうかと、近ごろは考えている。

死なないための考え方

やはり過酷な夜だ。ほんのりあたためた電気カーペットの上にちぢこまっている。目の前にはRITTERのギターケースが横たわっている。明日の朝ネカフェのカラオケルームで練習しようかと思っている。断られなければだが。

アラビア語の勉強をはじめた。文字の連結が難しく、なんのこっちゃという感じだが、いずれ慣れると信じる。コーランを読んでみたいという理由だけで語学入門書を手に取ったが、アラビア語で旅行できる国もたくさんあり、勉強するメリットはいろいろあると思う。これまで、ぼくの学んできた外国語は基本的にラテンアルファベットで表記されていたが、アラビア語でついにラテンアルファベットを脱することとなった。ちなみに、これまでぼくが挫折した外国語はラテン語とロシア語であり、続いている外国語は英語、フランス語、ドイツ語となる。

月曜日(祝日)は妹の結婚式が千葉県東金市で開かれた。総勢40名ほど。ぼくは岐阜からやってきた祖母の送り迎えを東京駅まで往復することとなったが、前後の日に家族で東金に泊まったので、わりと余裕のある日程だった。

さて、すこし話は戻るが、12日土曜日の早朝、ぼくは川崎の子ども会の行事でスタッフとして参加するため、結婚式の荷物も含めて車に積み込み、一路川崎は麻生区へ発った。その日は施設に1泊してイベント2日目を迎え、昼過ぎまで参加したあと父親から電話が入り、行事を早退して東京駅に向かった。首都高速で道を間違え、なぜか錦糸町まで行ってしまったが、なんとか一般道で東京駅まで戻り、地下駐車場にクルマを停めた。岐阜の実家まで祖母を迎えに行った父が祖母とともに東京駅に降り立ち、ぼくは2人を自分の赤い車に乗せ、妹の住む東金へ安全運転で向かったのだった。ちなみにぼくは東金に行くのははじめてだ。

東金で妹の働く老舗料亭をさらりと眺めたあと、結婚式の会場になるホテルに着いた。4人は泊まれる大部屋。ロフトがついており、ぼくと父はロフトで寝ることとなった。しばらくして母親が合流した。ホテルのレストランで夕食をとる。妹も合流してにぎやかな?食卓となった。妹は風邪をひいているらしく、あまり長居せず帰っていった。ぼくは父とホテル地下のバーでお酒を呑み、それなりに酔ってから部屋に戻った。本を読んで頭を落ち着けてから、大浴場に行って風呂に入り、ぐっすり眠った。

翌日は7時過ぎに起きて朝食をとったあと、父が散歩に出るというので、ぼくもすこし遅れてホテルを出た。散歩をするつもりはなかったが、すこしばかりギターの練習がしたかったので、持ってきていたギタレレを近所の公園で弾いた。

昼前に身支度を整えてから式場に移った。親族顔合わせののち、教会風の建物で式が行われた。神父は登場せず、司会者がはきはきと進めていった。父親に連れられて妹が入ってきた。知っている顔ではあるが、しかし同時に花嫁でもあるのだった。ぼくには知らない妹の世界というものがあるのだろう。

披露宴に移った。ぼくはのんびり呑んだり食べたりしていた。祖母が途中で妹から花束をもらい、涙していた。最後に両家の両親が新郎新婦の横に並んだ。ぼくはなぜか、着物を着て、なで肩の(自分の)母親を見て、「あぁ、昔の日本人なんだなぁ」と思った。

4時になるころ部屋に戻ってきた。その後父とすこし市内をぶらついたすえ、ファミレスに入って夕飯を食べた。「もうこっちに来る用もあまりないな」と父は言った。妹は東金で暮らしていくのだろう。

翌日、9時ごろホテルを出発し、東京駅でお昼ごろ祖母と父を見送ったあと、ぼくはいつものように帽子のつばの下からややにらむように前を見つめながら、駅の地下街を歩いていた。

音楽のよろこび

自宅があまりにも寒いので近所のネットカフェに避難した。自宅でも暖房をかければそれなりにあたたかいはずだが、個人的に暖房は禁じているので、夜はかなり冷える。ホットカーペットだけは使うようにしているので、押し入れのある部屋でうずくまって本を読んでいることはよくあるのだが、そろそろそれも限界な気がしてくる。

会社の新年会は今週の金曜日だと思っていたが、本当は来週の金曜日だった。ギターで1曲ひくことになっており、ほぼ毎日のようにアコギかギタレレで練習をしている。素直に楽しいのだが、なかなか上達しないのが歯がゆい。YouTubeを見るときもミュージシャンのギターばかり見ている。パソコンのキーボードをたたいていても、なにやらコードをおさえているような気がしてしまう。

作業に集中するために避難したはずなのだが、夕飯を食べてThe Seekersのコンサートに見入っていた。最近 The Seekers をきくことが多い。素晴らしいバンドなので、きいたことがないかたには自信を持っておすすめしたい。オーストラリア出身のフォークバンドだ(活躍は主にイギリス)。素晴らしい音楽をきいていると、たとえ自分の演奏がつたなくても、すこしでも音楽にかかわっているというそのことだけで、意味があるように思えてくるから不思議だ。ぼくは初心者の域をまったく出ないが、音楽をやることで前向きになれる気がする。正確にいえば、音楽をやることはひとを下向きにはしない。

ちなみに、ぼくが披露する予定の曲は、RenaudのHexagoneだ。コードは2つのみしか使わないので、最初簡単かなと思ったが、そうでもなかった。やっと歌詞を覚えたので、コードチェンジをもうすこしスムーズにしたい。

2日前の夜に酔っぱらったままレポート用紙に恋の詩をかきつけていたが、ここに出すのはためらわれる。ある女性に宛てて、「あなた」とかいているうちに、「あなた」の指すものが「あなた」ではなくなっていくのである。

たばこをやめようとしていたのに、今日も朝とおやつで2本吸った。そういえば後輩から更に2本もらった。ぼくはぼくの好きなひとにきいてみたいのだ、「どうすればたばこやめられますか」と。ぼくの期待する答えは、「すいたくなったらそのたびにわたしに声をかけて。わたしそのたびにあなたにキスしてあげるわ」である。おそらくこうした答えはだれからも得られぬだろうから、ぼくはあえてきいたりしない。たばこをやめれば彼女ができるかなと思い、中断することもあったが、別にやめたからといって彼女はできないと思う。そう思うとまたすい始めてしまう。そのくりかえしだ。ぼくははやく「 あなたにキスしてあげるわ 」といわれたい。

「ひとりよがりだ」と思うとき、自分に生きる意味はないと思ってしまう。おもしろい。だってひとりが好きだからだ。ひとりが好きなのに自分がひとりであることに気づくと絶望する。べつにひとりだってかまわない。ひとりだってかまわないが、そばにだれかいる(ような気がする)と思えればいい。自分にはだれもいない、そのように思うことがとてつもなく心には負担なのだと思う。

「冬もそのまんなかあたりなのでしょうか。ご連絡もせずにすみません。どのようにあなたをお誘いすればよいのかわかりません。いや、白状すれば、自分があなたを誘うきっかけがないのです。前回からわたしはパワーアップしたのかときかれると、いや、そうでも、と答えるほかありません。わたしが与えられるものは多くありませんし、わたしがすすんで差し出すものは、大抵のひとにとって、特に必要としているものではないでしょう。あなたがわたしに会って、なにか得られるものはあるのでしょうか。いや、なにも得られなくてもかまわないのかもしれませんが、それであなたは満足なのでしょうか。わたしはあなたに会えたらそれで満足です。ほかに望むことはありません。でもね、こういうふうにお誘いしたら、あなたが困ってしまうのではないかと思って、こういうふうには誘えないのです。だからわたしは、楽器の練習をしたり、お茶を淹れる練習をしたりしているのです。あなたがわたしのことをさっぱり気にかけていないということもあるかもしれません。でもわたしは、あなたのことを考えながら過ごす時間を大切に思うでしょう。なぜだかよくわかりません。好きという言葉がしっくりこないと思うことがあります。好きという言葉は、わたしの気持ちをあまりにも要約しすぎです。べつに好きじゃねぇよ、とか思ったりします。告白なんかしたくありません。わたしはうそが苦手です。わたしの告白はさっさとわたしのもとを離れて空に昇っていくでしょう。わたしはわたしの気持ちが音にでもなって、いつも体から鳴り響いてくれたらいいのに、と思います。」

B79

いつしかわたしはスマホのメモに自分のスリーサイズを残していた。男性が胸囲を測ることにはあまり意味がないと思うのだが、たぶん下着を買うときのために測ったのだろう。

昨日は初出勤日で、早速おつかれになったわたしは、帰宅してギターの練習と洗濯を済ますなり、行きつけのバーに飛んでいき、ひとりウイスキーを呑んでストレート酔いした。わたしは最後に頼んだ酒を飲み干すことのないまま、体調に危機を感じ2時ごろ帰宅した。

本日は正午に起きたのだった。例によってスパゲティをゆでる。瓶詰めのトマトソースをかけて食べた。本当はMCTオイルを使って完全無欠コーヒーもどきを飲むつもりだったが、空腹には勝てない。MCTオイルは未開封のままになった。

自転車をそうじする。そうじのついでに増し締めも行う。普段乗りの折り畳み自転車も、空気を入れ直し、チェーンに油をさす。

そのまま折り畳み自転車で買い物に出かける。まずメガネ屋でフレームの調整。続いて楽器店でストラップとカポタストを買った。クジ引きでタンブラーが当たった。ラッキーだ。

リサイクルショップで茶器を探す。フレンチプレスのコーヒー器具は置いてないようでこれはパス。くびれのあるティーポットとピーターラビットの絵柄のカップを購入。あまり安くはなかったが、これは客人用なので出費には目をつむる。

喫茶店でエスプレッソを呑む。小銭も消えた。日没近くに帰宅した。

皿洗いを済ませ、アコギにストラップをつける。楽譜を机の上に広げ、立って弾き語りの練習をする。来たる金曜日には会社行事の出し物で本番を迎える。簡単な曲を選んだつもりだが、あまりスムーズには弾けない。そう、わたしは不器用。DとEmしか使わないにもかかわらず、EmからDにすぐ移れない。悔しい。部屋が寒い。台所の横の窓が開けっぱなしだ。ああ、わたしの練習も筒抜けだったか。

W68, H85

明日は、

  1. クルマの洗車
  2. サイクリング
  3. 自転車店に寄る
  4. クリーニング店でワイシャツを回収
  5. 佐野のイオンで紅茶を買う

予定だ。

昨日の酒がこたえている。飲み過ぎはいけないと思いつつ、しばらくするとまた飲み過ぎる。あほである。

「なぜたばこを吸うかって?ぼくがひとりだからさ。もしだれか本当にぼくと一緒にいたらぼくはたばこを吸わないだろう。今はこの煙に相手をしてもらっているのさ。どうかぼくにかまわないでくれ。なに、たばこの話はごめんだよ。」

新年、日差し、みかん

おっぱいにはナイフとフォーク

レトルトカレー
パックのご飯2つ
新年、わたしの部屋
画面の焼けたワープロ

他人の撮った
とある女性の写真を
削除しようか迷っていた
決別すべし
浴室のパンツとハンカチに
I will wash them myself

お昼前、ふとんに横になりながら
だれにも会いたくない、なにもしたくない
と思っていた
わたしの考えることがわたしの内部で完結するものだろうか
わたしはまるくなってせーはーと息をしながら
しかしわたしの外の世界のことを考えていた
わたしの考えることはすべてわたしに属するのでしょうか
わたしの主人はわたしではありませんゆえに

おっぱいにはナイフとフォーク
わたしは個人であることをやめたいとすら思う
しかしわたしは個人であり続けなければいけない
他の人もまさか普遍的人間などではありえない
この世界
I’m lonely
わたしは待つことができない
わたしを待つ人はいないから