サイクリングの苦悩と展望

  • 髪の毛にクセがつき、直らない
  • あついと思ったらさむい
  • 本線から何度も何度も何度も迂回を余儀なくされ、頭がおかしくなる
  • おしりが痛くなる
  • 手のひらが痛くなる
  • つかれるねむくなる
  • おなかがすく
  • 雲行きが怪しくなり雨が降る
  • 背中がむれる
  • リュックが重い
  • リュックの中でスマホを紛失する
  • お店に入りにくい
  • いつまでも目的地に着かない
  • わりとほかの人は普通の休日を過ごしている

上尾のファミレスBで休憩をしている。13時21分。蒲田の父親のアパートから足利の自宅へ自転車で帰るところだ。ピスト車で来てしまったためにいつも以上に消耗している。雨具を持っていないのに雨が降り出し、避難して昼食を食べた。

サイクリングの苦悩を挙げてみた。いくらでも挙げられるだろう。逆にいいところは?よくわからない。いいところがあるからやっているのか?惨めな気分になるからやっているのか?

死にたいからやっているのか?うーん、ちょっと違うかな。生は死の代替であるように感じることはあるけれど。

結論はない。乗りたいと思ったから乗っているにすぎない。

わたしは先日ある不安を覚えた。もしわたしが一文無しになったとき、わたしは果たしてロードレーサーに乗れるのだろうか。ママチャリに乗っているホームレスは見たことがあるが、ロードレーサーに乗っているホームレスは見たことがない。

わたしは考え方を傾けた。わたしが日本初のホームレスロードバイカーになればいいのだ。

天と契約作家

—なんですか、天と契約作家というのは?

—ええ、つまり、作家ということなんですが、ほら、ぼく、原稿を書いておかねをもらったことはほとんどない。

—はぁ。つまり、趣味ということですか。

—まぁ、そうも言えるのかもしれないね。うーん、作家として(もしそんな前提が通用するのならば)、ぼくはどこかに雇われているわけではないし、どこか業者から執筆依頼が来ているわけでもない。

—プロではないと?

—世間的にはプロではない。なんの依頼もないから。

—天と契約とは、どういった意味合いになりますか?

—契約というのは、契約社員からとっています。期限付きという意味で使っています。

—契約作家とは期限付きの作家のことだと。

—そういうことです。

—天に任期を握られている、という見方でよろしいですか。

—まさにその通りです。天がぼくの作家としての生命を決めるのです。

栃木県における国際免許申請方法

「コクメンの申請でよろしいですか?」

国外免許の窓口でそうきかれた。はい、と答えると、まずは1番の窓口で証書と申請書をお取りください、と言われた。時刻は1時すぎ。1番窓口はやや混んでいた。2530円払い、証書と申請書を受け取る。

申請書に記入する。難しいところはない。国外免許の窓口に提出する。10分くらい待つとグレーのやや大きめのカードを渡された。国際免許である。渡航予定地にフランスと記入しておいたら、メインのページがフランス語表記になっていた。あとは合わせて日本の免許証も持っていけば、フランス等海外での運転が可能だ。

なお、申請時にパスポートと写真(縦5cm×横4cm)、免許証をお忘れなきよう。鹿沼の免許センターで平日のみの受け付けです。

行ったことのある人ならわかると思うが、クルマで行くと、近くの人でない限り軽いドライブになる。食堂は学食みたいだが、見晴らしがよいのでわりと好きなほうだ。

わたしは12時すぎに着いたので、食堂でかけうどんを食べたあと、すみっこでプレイボーイを読みながら窓口が開くのを待った。

A New Week Starts

冷蔵庫がうぃんうぃを音をたてている。さっき自販機にジュースを買いに行ったら、夕方の雷雨のためかダウンしており、電気のついている自販機まで歩いた。

また週があけた。ぼくはまた会社に行った。ぼくはまた会社に行ったのか。次の日曜は自転車レースがあるから日曜に髪を切っていた。

仕事の中身は特には書くまい。白状すればぼくは会社がきらいだ。ぼくが人生がきらいであるのと同様に。最近は起業しようと妄想していたが、そもそもぼくは会社がきらいだ。会社がきらいな人間が会社をつくるとはどういうことなのだろう。ぼくは会社員である以前にひとりの人間でありたい。どんなに社会にとって役に立たない存在でも。

日常について言えばぼくは大部分を浪費している気がする。浪費した結果なにを得ようとしていたのかさえ忘れかけている。困ったことだ。同時に、生きているのが精一杯でもある。

妄想に次ぐ妄想。ぼくはくだらないことのために死ぬのだろうか。ぼくはくだらないことに花を咲かせたい。ぼくはひとのいう現実というものが好きではない。現実などありはしない。あるのはそれが現実だという個人の信仰だ。現実とは高度な近代の宗教なのだ。

こんな意味のないことを書きつらねたところで、現実においてぼくは無力だ。人生に満足なんてしていないが、人生には飽きた。ぼくは死にたいわけじゃない。ただ、フローチャートで片づいてしまうような生にはこれっぽっちも興味がないという、ただそれだけのことだ。

死ぬまで死にたいと思っているⅣ

夕立も来そうなもっさりした夕暮れどき、ぼくはラーメンチェーン店Kに入った。ラーメンと一緒にコーラを注文すると、店員はたずねた。

「タイミングはどうなさいますか」

無職生活も半年をむかえるころ、ぼくは自転車で知り合ったかたの紹介でもって現在の会社に入った。住んでいたアパートから歩いて10分だったから、引っ越さずに済んだ。ぼくは営業部に配属され、半年ほど研修期間を過ごしたあと、営業担当として主に新規獲得を試みていた。

白状すればぼくはちっともガツガツしていなかった。売り上げが達成できないたびに、心の中では青くなっていたが、あまり気にしてないものと見られていた(ような気がする)。正直自分の売っているものにそこまで愛着を感じられなかった。なんでおれがこれを売っているんだろう、と思うこともあった。

また半年経った。ぼくの営業成績はひどいものだったので、上司らと面談を重ねることとなった。もしやる気があるのかと問われたたらぼくは黙り込んだと思う(実際に黙り込んだかもしれない)。異動の希望はあるか、ときかれた。ぼくはホームページ関係がやりたい、と答えた。スキルはあるのかときかれ、ないですと返した。

クビかなぁ、と思った。2、3日経たないうちに、異動していい旨のお達しがあった。ぼくは命拾いした。

それから半年が3回は経った。ぼくは相変わらずあまり仕事のできないやつだろう。ぼくは仕事のできないことを売りにしてきたから。相変わらずぼくはやる気がない。いや、そこになにか超えられない一線があり、越えようとするとぼくは気持ち悪くなり、拒否反応を示すのである。

「それさ、ほんとにほんとにやらなきゃいけないの?おれさ、ほんとはそれ、やりたくないんだよね」

死にたいかときかれたら、それはいつでもイエスだ。だが、それはこれからのことで、これからのことはこれから任せだ。

今、生きてるのか、死んでるのか、生きようと努力しているのか、全力で死んでいるのか、そういったことをぼくは問題にしたい。

死ぬまで死にたいと思っているⅢ

就職して川崎から足利に引っ越し、ひとり暮らしを始めた。その年の6月にはブログを始め、詩を書き始めた。仕事はそれなりにつらかった。精神は肉体以上に苦悩した。たぶん仕事がいやだったのだと思う。正直、納得がいっていなかった。「なんで仕事をしなければいけないの」、「どうしてお金を稼がなければいけないの」という疑問に、ぼく自身「やらなきゃいけないから」という答えでは返せなかった。なぜ勝手に答えが、しかも答えにもなっていない答えが用意されているのだろう。ぼくは次第にお金自体も嫌いになり、給料をもらうのが気持ち悪くなり、そもそも仕事が好きではなかったので、10月に退社した。

仕事をやめたら天国かなとタカをくくっていたら、そんなことはまるでなかった。いくらお金が嫌いでも通帳の残高が減っていくのを見て平然としているわけにはいかないだろう。お金のこともさることながら、一日中考えごとをしているために、「死にたい」と思う頻度が増え、下手すると起きている間中「死にたく」なってくる。冬にさしかかり、ぼくは寝てばかりいた。

「死にたい」けど、べつに「死にたいわけじゃない」

つづく

死ぬまで死にたいと思っているⅡ

大学時代、ぼくは死にたいと思っていたに違いない。そう思いながら4年間過ごした。ぼくはたいていひとりだったが、大学はひとりでいてもべつにかまわれないところだったし、「死にたい」と勝手に思う自由もあったので、そういう意味ではすこし楽になったのかもしれない。「まわりの人達はどうしているの」と問われても、知り合いはほとんどいなかったので、どうしているかなんとなくしかわからなかったし、正直あまり人のしていることに興味もなかった。

ちなみに、大学時代に特にお世話になった先生が2人いるのだが、1人は在学中に、もう1人はぼくが卒業後まもなく、病気で亡くなってしまった。身近な人が亡くなるショックのようなものを、このゼミの先生が3年次の夏に亡くなった際にはじめて感じた。授業以外で話したことはほとんどなかったが、詩の先生としてリスペクトしていたので、しばらく茫然自失となっていたと思う。

就職活動の波が迫ってきたとき、ぼくは行き場がなくなった。就職したい気持ちは当初ほとんどなかった。自転車が好きだったから、自転車メーカーなどを中心に何社か回ってみたが、自転車に関する仕事にそこまで興味が持てなかったのか、そもそも仕事がしたくなかったのか、途中で就職活動を放棄し、毎日書き物をしていた。ら、父親に説教され、怒鳴られ、ノーチョイスとなり、よくわからないまま4年の春に就職活動を再開した。つらさにランキングなどつける意味もないが、この時期はつらい時期ベスト5には入るように思う。根本的なやる気のないまま面接に行く滑稽さよ。履歴書を書くたびに手が震えた。ぼくはうそでも書いているんじゃないかと思った。

ふたたび夏になり、半分ヤケ気味となっていたぼくは、遠足気分で遠出しながら就職活動をスローペースで続けた。結局栃木県足利市にあるメーカーから内定をもらえたので、そこに行くことに決めた。ぼくは、親に説教され、怒鳴られ、ノーチョイスになるなどという展開はもうごめんだと思った。ホームタウンである川崎、高校に通った横浜、大学のある東京、いずれの都市にもしばらくさよならしたい気がした。

つづく

負けても幸せ~「秒速5センチメートル」を観て~

「秒速5センチメートル」を観た感想を述べます。

ひとことで言えばとてもよかったです。「君の名は。」もとてもよかったのですが、もしかすると「君の名は。」よりおもしろいかもしれないです。

注目すべきはラストです。貴樹が踏切で明里とすれ違う。貴樹はふりむく。しかし明里はふりむかず歩いていく。これは2人のそれぞれの気持ちを象徴するのかもしれません。貴樹はここで悔しい思いを感じたかもしれません。踏切の向こうに誰もいないことを確認したあと、彼はなぜか笑って去っていくのです。あれほどまでに追い求めていた明里ともう一度出会うことができないのに、どうして彼は笑うことができたのでしょうか。

あぁ、ハッピーエンドなんだと思いました。主人公がハッピーだと感じられるのならそれはもうハッピーエンドなんだと思います。貴樹は、明里と一緒になれないという意味においては、人生に負けています。しかしながら、彼は、(わたしが推察するに、)自分からハッピーになろうと思ったのではないでしょうか。明里のことは未だ好きなのでしょうし、桜を見ると彼女を思い出してしまうのは確かにそうなのでしょう。

明里がもう彼を気持ちの上で「放した」ことを察して、彼は彼の過去を「放した」のだと思います。そんな彼がとてもかっこいいと思いました。

わたしにとって本物のアニメとは、「もう一度戦おう」と思わせてくれるアニメです。「秒速5センチメートル」は、そういう意味で傑作でした。

最近のわたしのアニメ事情

〜「マクロス」から「アンダルシアの夏」まで〜

アニメを見ているとき、わたしはわたしが孤独であったことを忘れる

たまに熱心にアニメを見ることがある。そういうときは、つかれているときなのかもしれないし、欲望のやり場がないときなのかもしれないし、現実から逃れたいときのなのかもしれない。あるいは、平凡なときなのかもしれない。

さて、わたしにとってアニメといえば、「新世紀エヴァンゲリオン」である。そのため、わたしがアニメを見る際には、どのようにしてアニメというものが「新世紀エヴァンゲリオン」に至るかという過程を気にする。そんなわけでわたしは古いロボットアニメを見ることが多い。「マクロス」についても、エヴァの庵野監督が「トップをねらえ!」のインタビューで「マクロス」について言及していたので気になっていたから手にとってみた。

さて、「超時空要塞マクロス」の第一印象は、絵が古めかしい、というものだった。なにしろ1982年の作品である。とはいえ、ストーリーが進むにつれ、その印象は払しょくされていった。「マクロス」は第一にヒューマンドラマである。キャラクターの表情は、なかなかにゆたかである。もちろん、アニメとは省略の芸術であるから、その記号的手法がうまく機能しているのだともいえるが、特に早瀬未沙とリン・ミンメイの表情からくみとれるものは多いのだ。

そう、「マクロス」は宇宙戦争モノであると同時に、恋愛モノでもあるのだった。それも最後まで三角関係なのである。最初は主人公の輝がミンメイに振り回されるのだが、終盤は輝が2人のヒロインを振り回すのである。正直、ハッピーエンドなのかわからない。もちろん、感動的なシーンはいくつもある。しかし、主人公とヒロインたちとの気持ちの行き違いがしばしば、(もしかしたら最後まで)生じるのである。それでも、「マクロス」は心温まる物語だと思う。きっと、恋愛とはその過程が楽しいのだ。

すこし感傷的になってしまい、マクロスワールドにドはまりしそうだったので、気になっていた「茄子 アンダルシアの夏」を見た。自転車レースのアニメである。スペイン一周レースが舞台だ。わたし自身、自転車ファンということもあり、ぐいぐい引き込まれ、主人公のペペに感情移入した。ペペは、ついていないやつかもしれない。だが、ペペは、結局、自分の運命をひとのせいにはしない。ペペは、ペペなりに、たたかう。その姿勢が清々しかった。

ついつい自分を、自分の幸せ具合をステータス化したがるのが人間というものだ。きっと、自分は、幸せでも不幸せでもない。瞬間瞬間に、ステータスなどない。あるのは、気持ちの流れだけだ。