わたしよわたしを放て

ああ
気持ち悪かったなぁ
お昼は
夕方すこしましになった
机に座っていると
頭がおもい
電子たばこがさっき切れた

ああ
カレーが食べたい
ああ
ビールが呑みたい
ああ
バーのカウンターで背中を丸めたい
ああ
始発電車に乗って福島に行きたい

勉強をしていると
わたしは1分ごとに
活力を失い
あなたのことが好きになった
ことを忘れ
死ぬまで勉強するものなのだろうか
と危惧する
わたしは勉強など放り投げて
あなたのもとに行きたいが
あなたにはわたしが狂人にしか
映らないだろう
わたしは狂人にならないために
勉強するのだ
わたしは狂人だから勉強するのだ
わたしはあなたのことを考えないため
に机に向かい
あなたとはまるで関係のない本を
読み漁るのだ

わたしはあなたを忘れるための
努力はしない
だが覚えておくための努力もしない

牢獄にひとり息をして

自宅は牢獄だし
会社は牢獄だし
地球はまあるい金魚鉢だ

宇宙の果てまで旅ができる日も
くるのかな
宇宙がプラスチックの桶だったら
どうする

人間の気持ち人間の気持ち人間の気持ちは
人間の気持ちにしかわからないのかな
きみは宇宙の気持ちを考えたことがある?

宇宙もいつか死ぬだろう
星は静かに息絶えるだろう
ぼくはぼくであることを忘れ
ぼくがぼくであったことが忘れられるだろう
そのときぼくはぼくでなくなるだろう
そしてぼくはぼくが宇宙であったのか星であったのか
はたまた人間であったのかわからなくなって
もうろくとするだろう
ぼくが宇宙であったか星であったか人間であったかなど
どうでもいいと一蹴されるだろう
ぼくはぼくの思いのために泣くだろう
ぼくはぼくの思いのために泣くだろう
そのときぼくはもういないだろう
だからぼくは泣けないだろう

北上志向

さっき会社の後輩が来て自転車を借りて行った。これで我が家から一時的とはいえ、スポーツ自転車はなくなった。家はすっきりとし、ぼくの心は荒涼としている。

昨日は温泉宿で8時前に目覚め、8時からのんびり朝ごはんを食べた。ホテルの朝ごはんというのはつねに最高である。その後部屋に戻ってたばこを1本吸い、荷物をまとめた。温泉がよかったのか体の痛みもなく、気持ちもいつもより軽い。山奥という立地も自分向きだったのかもしれない。部屋からの眺めをアタマに収め、宿を発った。天気は回復しており、紅葉がところどころ目に訴えてくる。さすがにオール一般道はきついので、高速に乗ることにしていた。

東北中央自動車道(無料区間)と国道13号で南下、その後東根インターから本格的に高速道路となる。山形自動車道から山越えをして東北自動車道に合流、しばらく走って国見SAでお昼休憩とした。ここからは調子よく進み、福島県を縦断した(高速なので街が見れないのが心残りではあるけれど)。那須高原SAで2度目の休憩を取る。あとはもう栃木県内だ。クルマも多くなり、列を組んで走るような感じになった。知っている区間に入り、ぼけっと走っている間に佐野藤岡に着いたので高速を降りた。

結局3時過ぎに家に着いた。さすがに高速は速い。6時間で400キロ近く移動できるのである。青森まで行っても12時間あればなんとかなるだろう(実際はもう少しかかるだろうが)。

なにしに行ったのかはいよいよわからなくなったが、いろいろと収穫はあった。この経験が活きる日もそう遠くはないだろう。また旅に出よう。

この恋に勝とうと思うなら

負ける覚悟をしなさいな
負ける覚悟ってのは
負けて悔しいと思う覚悟でなく
負けても
ああ定め今夜はさけのもう
と思う覚悟のことだよ
自由の風を吹かせてみろ

相手から愛を借り入れちゃいけないよ
相手に愛を貸してもいけない
愛は川に流しな
いつか雨にぬれたときに
愛が感じられるように

おれの気持ちなどおれの知ったことではない

最後にきみの顔を見てから
だんだんと日が経ち
きみの顔を細かく
思い出すことができない
そんなにも
顔がだいじなのか
ときかれたら
うーん
だいじ
と言うだろう
困っているのだ
顔も思い出せないのに
好きだとはどういうことだ
本当に好きなのか
週にいっぺんも
会えそうにないひとを
好きになって
おまえはどうするのだ
引っ越しでも
転職でも
する気なのか
ばかだねぇ

条件がそろわないと言うとき
合わない条件は
自分で埋めればよいだけだ
生きる方法を考えてあくせくするくらいなら
死ぬ方法を考えてさっぱりとした気持ちになれ

自分にも言う
勝手にすればいい
好きに思うがいいのだ
毎回、おそるおそるたしかめるな
頭でも打ちつけて
おまえの思いとやらをさらけ出してしまえばいいのだ

おなかとせなかがくっつくぞ

山形は新庄の外れの山の中の温泉宿でお腹をこわしている。たぶんロングドライブで胃腸がよわってしまったのだ。なまぬるいお茶をのみながら若山牧水の歌集を読んでいる。牧水はロマンチストのように紹介されることもあるが、その歌は「覚悟」や「あきらめ」や「絶望」を感じさせる。

今日は4時に起き、20分後にはクルマを出した。カーナビがかなり古いので、スマホでナビをかけるのだが、画面が見えないし、音も聞こえないときがあり、不便な思いをしていた。骨伝導のBluetoothイヤホンをつけてみたら、なかなか良い感じで、少なくとも音を逃すことはなくなった。

あまり道路の下調べをしていなかったので、ナビどおり進んだ。高速道路は避けてある。佐野から栃木へ抜けるときに空荷のトラックにあおられ、死ぬかと思った。雨が降り始め、雨足が強くなった。鹿沼から日光にかけてどしゃ降りで、ぼくは運転席に閉じ込められた。鬼怒川のコンビニで7時ごろ休憩し、トイレを済ませ、たばこを吸った。以後休憩のたびにたばこが手放せなくなった。

国道121号を進み、南会津に入ったところで道の駅たじまで再び休憩。9時ごろ。山はところどころ紅葉しており、紅葉ツアーとなった。助手席にだれかいればなぁと思ったが、誰が朝の4時からオール一般道のドライブに付き合ってくれるだろうか。ひとりでも十分にくるしい。

山を抜けて会津若松の外れを走る。その後のことをあまり覚えていないが、たぶんまた山道に入ったのだろう。また雨が降っていた。いつのまにか県境を越えて山形県に入っており、米沢に向かう手前で121号を外れて、抜け道から川西町へ入った。長井市の市街地手前で道に迷う。ナビの案内する川沿いの抜け道が通行止めで、来た道を戻ったりした。ナビに悪態をついたが、ナビに頼る自分がいけないのだ。12時も過ぎていたのでコンビニに寄り、地図と弁当を買って、地図を見ながら車内でウトウトした。

自転車で同じルートをブルベ的に1日とか2日とかで走るのは無理だろうなという気がした。けっこう山越えが多いし、基本登り基調なので、体力を消耗するだろう。山道では危ないときの逃げ場もない。ブルベトレーニングの下見も兼ねていたが、ぼくの夢は軽く潰えた。

以後大きく迷うことはなく北上した。最上川沿いの道は景色も最高だった。写真を撮っていないのが悔やまれる。同じルートを走ってくださいと思う。一緒に走りましょうと思う。特に自転車の場合、景色は宮沢賢治ふうに言えば、mental sketch modifiedであるから、これはもう多少とも体に痛みを与えてあなたの見える景色を描きだしていただくほかはない。(写真を撮らない言い訳でした)

昨夜5時間くらいしか寝てないせいか、はたまたすでに運転のしすぎなのか常にねむく、ほっぺをたたいたり歌ったりしながらなんとか進み続けた。ちなみに自転車のボトルでJET VALVEというのがあるのたが、これはドライブでもおすすめだ。片手で走りながら水が飲める。助手席に誰かいなくても大丈夫だ。

高速道路は避けていると書いたが、東北中央自動車道(無料区間)は通った。料金ゲートはない。制限速度は70キロだ。高速がタダ?意外である。山形県の配慮なのだろうか。気持ちよく走れる。整備を進めてほしいが、新庄の先でとりあえずは終点。

16時くらいで、宿へ向かっていた。どんどん市街地から離れていくので、食事はどうしようかなと思っていた。素泊まりで予約していたので、近くに食べるところがないとメシ抜きになってしまう。最悪抜いてもいいと思ったが、スーパーとかコンビニに全く行き当たらないので、やはり不安にはなった。ゆるやかに山へ入っていく。道のどん詰まりのところに、こじんまりとした温泉街があった。羽根沢温泉というようだ。

集会場の駐車場がいっぱいだったので、ホテルに確認して奥の空き地に停めた。まず風呂に入る。熱い。どっと汗をかいて、あとで少しさむかった。フロントで朝食をつけてもらいようお願いする。夕飯の話をすると、隣の食堂がやっているとのことで入ってみる。やっている気配がなかったので、店のなかで電話をかけたら、奥にいますよと言われ、準備をしてくれた。カツ丼を食べる。お客はその後ほかにも入ってきた。値段は街中の定食屋と変わらない。おそらく何十年も価格を変えていないと思われる。

駐車場に寄ってたばこを取り、部屋に戻る。昼間買ったグラビア目当ての安っぽい雑誌を読んでいたらなんとなくさむくなり、しばらく寝てしまった。21時過ぎに目が覚め、トイレに行った。

グラビアはまだしも、やや興醒めな雑誌でげんなりした。ぼくも安っぽい男である。袋とじを指でべりべり開けた。自戒も込めて言うが、他者を思慮なく攻撃ないし批難する行為をぼくは好まない。

黙って慎ましく生きたいと思い、黙って慎ましく生きろと自分に言ってみた。あほである。黙って慎ましく生きろと言った自分こそ黙って慎ましく生きるべきだ。これはとんでもない矛盾である。ぼくは単に、自分も含めて意味もなくひとを傷つけるのはよくないねと思っているだけだった。

生きることにびびっているのだろうか。あるいは萎れているのだろうか。ああ、質問される、というか自問しているのだが、あまり自問するとつぶれてしまう。

自分につきまとう自分を殺そうとすれば、自分につきまとわれる自分も殺すことになる。

月明かりで洗車

来る土日はロングドライブでも行こうと思い、山形は新庄の山の中の宿を予約した。ついでにパリの空港近くのホテルを取ろうと画面に食いついていたが、高くてリッチか安くてプアかしか選択肢がなく、ひとまず見送った。帰りの日の便を考えていたのだけれど、街中から電車に乗ってもいいわけだし、向こうに着いてから予約したってかまわないわけだ。

昨夜、旅行4日目の宿をブレストで取ろうと思い、YHのホームページから予約を試みたが、前払金をクレカで払ったところでページが白くなって反応がなくなり、予約が完了したのかどうか定かではない。恐らく決済は完了しているだろうから、念のためYHに直接メールを出してみたが、今のところ返事はない。ちょっと不安である。もう一度くらいメールを出したほうがいいのだろうか。早く返事をもらいたい。が、最悪パリに着いてから電話かなにかで予約してもいいだろう。前回の旅行のときはほとんどの宿を予約せずに飛び込みで泊まっていたのだから、今回の自分は慎重というか不安がっているようでもある。

明日は会社の健康診断がある。たばこをやめたほうがいいんじゃないかとか、酒をやめたほうがいいんじゃないかとか、睡眠が足りないんじゃないかとか、いろいろと余計なことを考えてしまう。びびっていたらいけない。ここで自分を曲げてはいけない。わたしはわたしの健康を背負って行こう。わたしだってわたしの健康を追求しているのだ。検査ではわたしのこだわりなど歯牙にもかけないだろうが。

帰宅して夕飯を食べてからじょうろとプラスチックのケースを持って外に出てクルマを洗った。よく見えないので感触だけでサッサとガラスやボデーを拭いた。ここのところあまり乗っていないような気がする。今のクルマにしてちょうど1年くらい。マツダの最後のロータリー車である。会社の友人が乗っていたもので、冗談で「くださいよ」と言っていたら格安で譲ってもらえた。明日ガソリンを入れて土曜日は早朝に出発しよう。

自宅のWi-Fiがこのごろ絶望的に遅い。実を言うと父親が料金を払っているので、これも自分で払うようにしなくてはと思う。このWi-Fiさえ名義変更ないし駆逐すれば我が家で父親が払っているものは消滅する。わたしは遅いWi-Fiを引き受けてもだえ苦しもう。いや、もっと速いやつにしよう。

仕事は単調かもしれないが、わたしの生活はとらえどころがない。ゆるやかに自殺しているような気になることもある。負けてはいけないと思いつつ、負けるのが人生だとも思う。いや、もう負けていると実感する。もっと負けなくてはだめなのだ。勝っている人間はどこまでも勝ち続けて破滅すればよいと思う。勝とうが負けようが最後は死ぬのだ。負け犬よ死をなめろ。勝者はびくびくしていろ。

孤独だなと思う。孤独という言葉自体があちこちで使われてすでに豊かになりつつある。わたしは孤独以下である。孤独という語は深海を連想させるが、わたしは言うなれば水たまりである。すぐ乾く。しかし雨の後またそこかしこに巣くうのである。

わたしはたぶんラブレターをかきたいのだが、相手のことを考えてラブレターをかくことができないので、いきおい自分のことを考えてかくしかなくなる。わたしが恋愛などしたところで失敗するに決まっているのだが、わたしはただ失敗したときに、「うわあああああ」となったときに、自分のことを考えればいいと思っている。わたしは自分の精神のなかに、ありもしない相手をまるでそこにいるかのように錯覚するが、あくまでそれはわたしのなかのわたしによるショーなのだ。わたしは「相手のことを考えました」などとうそをつきたくないのである。わたしは物語をねつ造するだけだ。わたしはその物語を面白がってくれたらいいなとは思っているが、賛同してくれとまでは言わない。わたしたちは、わたしとして、わたしの集まりとして、向かい合うのではなくわたしの到達点を見つめて、ただ生きていく、歩を進める、にすぎない。わたしは孤独以下である。

 

ひさしぶりに生きていて楽しいと思いました

WordPressの更新が終わらないので、『失われた時を求めて』のペーパーバックをめくりはじめた。背表紙は黄ばんでぼろぼろだが、中のページはわりときれいだ。もう一度くらい最後まで読めそうである。

ひとと話すと自分の立ち位置がわかる。思ったより自分は元気そうだ。自分の人生にひとりでもいいから観客がいるという意識が多少なりともぼくを元気にする。人生は喜劇だと思う。笑えることが大事なのだ。笑って挑み続けたい。求める対象がひとから見てくだらないことでも大いにけっこうである。

なぜか夕方帰宅してから時間ができたので、ギターを触った。コードチェンジが相変わらずぎこちないが、ぽろぽろ音が鳴るだけでも心のなぐさみには充分である。豊かに生きるのに必要なのはカネではなく、心の余白である。

毎晩2時間勉強時間を確保することによって、ぼくはいかなる日でも個人的使命を果たすことができる(かもしれない)。仮に残業が長引いたとしても、家で2時間机に向かえばよいのである。24時間働いてしまえばその2時間は食いつぶされてしまうが、仮にそんなことになったら仕事をやめればいい。

WordPressの管理画面を開いたついでにパソコンで記事を書いているが、最近キーボードに萌えなくなってきた。スマホか手書きが好きだ。キーボードは感触が硬い。

「ひさしぶりに生きていて楽しいと思いました」と書いた。どうかしている。楽しいわけがない。だが短い時間でもそう思ったのだろう。たまには楽しいと思ったほうがいい。たまには昼から夢想したほうがいい。なにも叶わないと思っていても、ひとつかふたつくらいはあきらめていたことが芽を吹くかもしれない。

だめお

ふとケータイを見るとLe MansのYHからメールが来ていた。昨夜つたないフランス語で予約をお願いするメールを出した返事がきたのだ。わたしはラブレターの返事をもらったときのようなうれしさを感じた。Nous nous avons reserve une chambreと書いてあった。これでLe Mansで路頭に迷うことはないだろう。

ドラッグストアで買い出しをしていて、ついお酒コーナーに足が向いた。おいしそうなシングルモルト500mlが2,000円で売っていた。わたしは米を買うのをやめて酒を買った。おろかである。だが安い酒をたくさん呑むよりうまい酒をちょっぴり呑んだほうがよいと思っている。チンするごはんで夕飯を済ませ、ショットグラスに一杯だけ注いで呑んだ。自宅でメーカーズマークより高価な酒は呑んだことがない。

コーヒー豆も購買した。豆はチョイスがなくなりつつあった。ひとりサイズのフィルターも姿を消していた。孤独なコーヒー呑みは家呑みすらできなくなってしまうのだろうか。

そんなわけでアタマがとろんとしている。しかし言い訳はできない。わたしにはわたしのhomeworkがある。