11月20日(火)、ルマン~ブレスト

今はブレストのユースホステルにいる。洗面所の前に突っ立ってこの記事を書いている。

朝は起きたら8時だった。そうだ、昨夜のことを書こう。

7時半ごろぼくはホステル近くのバーに行った。ウイスキーを飲んでいたら隣のムッシュから英語混じりで話しかけられ、会話が盛り上がった。ルマンのこと、自転車のこと、旅行のこと、そしてとりわけ音楽とギターのことについて。

けっこう酔ったまま、そのムッシュ、セルジオさんが自宅まで招待してくれた。フェンダーのエレキを見せてくれるという。フランス人の家を見るのは初めてだった。マンションのようなところで、ひとり暮らしとみえる。年代もののストラトキャスターを出してくれ、即興であれこれ弾いてくれた。明日はルマンを発つと言うと、今晩ルマンのベストプレイスを紹介してくれるという。たぶんこの時点で22時半くらいだったのではないか。

ザ・ズーというバーだった。ソフィーというマダムが切り盛りしている。ここでセルジオさんの友人、ティエリーさんとジャンさんを紹介される。セルジオさんは1軒目で飛ばしていたせいか、ここではスローペース。逆にぼくは威勢よく飲んだ。ティエリーさんがぼくにぐいと顔を近づけ、

—ひとつめのアドバイスだ。カントの『純粋理性批判』を読みなさい。何語でもかまわない。
—ふたつめのアドバイス。コーランを読みなさい。

と言った。ティエリーさんもだいぶ酔っていたが、白髪のロン毛でなかなかかっこいいおじさんではある。本筋とは関係ないがこのバーにいる若い女性たちがびっくりするくらいの美人ばかりで、時折チラ見していた。

1時近かった。店を出る。会計はセルジオさんが済ましてくれた。セルジオさんとなぜか並んで歩いていた。ぼくは革ジャンのポケットに手を突っ込んだ。セルジオさんはたいへん親切ではあったが、いよいよ酔ってぼくにからんできた。ウチに泊まっていけと言う。ぼくはこれはまずいやつだと思い、フランス語で放っておいてくださいと言った。ホステルのある通りの入り口まで行き、セルジオさんと別れた。少し悪い気もしたが、ぼくはぼくであり続ける必要があった。

ホステルの入り口の自動ドアが開かない。死んだ、と思っていたら、誰か泊まっている人が戻ってきて、入り口が開いた。今思うと部屋の電子鍵でフロントも開くシステムだったようだ。1時15分くらい。ぼくは死んだように寝た。

起きたら8時だった。朝飯だと思い、食堂へ急いだ。軽めに食べ、紅茶を飲んだ。昨夜体を洗っていなかったので、シャワー室でシャワーを浴びた。ここのシャワー室はベリーグッドだ。清潔で広い。

チェックアウトの10時に合わせて出発する。クルマは無事パーキングに鎮座していた。ナビをセットして出る。街を出るのに若干てこずったが、なんとか市街地にサヨナラし、高速に乗った。

二日酔いで胃がやられていて、疲労感がひどい。最初のパーキングでガソリンを入れる。Sans plombというのがハイオクだ。おおむね日本のセルフスタンドと一緒。昼食もパーキングで食べた。クスクスと野菜スープで、胃に優しいランチ。

時折雨が降る。晴れ間がのぞくこともあり、日本で言えば新潟的な天候だ。高速道路はレンヌまでで、その後は一般道のフリーウェイで110キロで走る。

市街地の運転は不慣れだが、16時30分ごろなんとかユースホステル付近まで来た。路肩に停車して駐車場を検索する。結局オセアノポリス水族館のパーキングに停めた。ガラガラで無料。夏は賑わうのかな。

港を散歩して時間を潰してからユースホステルへ。広々としている。スタッフの男性は英語オーケーでたいへんに親切だった。今日は相部屋らしい。部屋に入るとジャン・リュックさんがいた。若くはない。おじさんと言っていいだろう。ベッドメーキングを手伝ってくれ、電源タップを貸してくれた。

その後イマーさんが現れ、英語で色々と話してくれた。ラザニアを取り出し、下で温めて食べない?と誘ってくれた。食べ物のあてがないぼくにはまたとない朗報だ。

キッチンでラザニアを湯せんにかける。イマーさんがワインを注いでくれた。キッチンにはその後、ティモテ、ヴィクトール、アラン、ジュリーなどのメンバーが登場し、会話が盛り上がった。ぼくのフランス語が実用にたえないことを痛感した。

その後、イマーさんと近所のバーに行って1杯だけ飲んで戻ってきた。イマーさんは以前はパリ在住だが、田舎町を好んでブレストに移ってきたみたいだ。ぼくも田舎町はいいと思う。田舎町が好きでなければそもそもブレストにも来なかっただろう。

記事を書いている途中に部屋からwi-fiのあるロビー前に移った。今は0時22分。眠い。今日もまた書き記すにはあまりに長い日だった。イマーさんが海外で働いてみたらどうだい?と言った。海外で職を見つけるのはたいへんだと答えたら、時にはねと返ってきた。思うに、日本の教育は基本的に日本で働く人生を前提にしている。だから日本で働くということしか選択肢に並ばないのである。

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