やはり過酷な夜だ。ほんのりあたためた電気カーペットの上にちぢこまっている。目の前にはRITTERのギターケースが横たわっている。明日の朝ネカフェのカラオケルームで練習しようかと思っている。断られなければだが。
アラビア語の勉強をはじめた。文字の連結が難しく、なんのこっちゃという感じだが、いずれ慣れると信じる。コーランを読んでみたいという理由だけで語学入門書を手に取ったが、アラビア語で旅行できる国もたくさんあり、勉強するメリットはいろいろあると思う。これまで、ぼくの学んできた外国語は基本的にラテンアルファベットで表記されていたが、アラビア語でついにラテンアルファベットを脱することとなった。ちなみに、これまでぼくが挫折した外国語はラテン語とロシア語であり、続いている外国語は英語、フランス語、ドイツ語となる。
月曜日(祝日)は妹の結婚式が千葉県東金市で開かれた。総勢40名ほど。ぼくは岐阜からやってきた祖母の送り迎えを東京駅まで往復することとなったが、前後の日に家族で東金に泊まったので、わりと余裕のある日程だった。
さて、すこし話は戻るが、12日土曜日の早朝、ぼくは川崎の子ども会の行事でスタッフとして参加するため、結婚式の荷物も含めて車に積み込み、一路川崎は麻生区へ発った。その日は施設に1泊してイベント2日目を迎え、昼過ぎまで参加したあと父親から電話が入り、行事を早退して東京駅に向かった。首都高速で道を間違え、なぜか錦糸町まで行ってしまったが、なんとか一般道で東京駅まで戻り、地下駐車場にクルマを停めた。岐阜の実家まで祖母を迎えに行った父が祖母とともに東京駅に降り立ち、ぼくは2人を自分の赤い車に乗せ、妹の住む東金へ安全運転で向かったのだった。ちなみにぼくは東金に行くのははじめてだ。
東金で妹の働く老舗料亭をさらりと眺めたあと、結婚式の会場になるホテルに着いた。4人は泊まれる大部屋。ロフトがついており、ぼくと父はロフトで寝ることとなった。しばらくして母親が合流した。ホテルのレストランで夕食をとる。妹も合流してにぎやかな?食卓となった。妹は風邪をひいているらしく、あまり長居せず帰っていった。ぼくは父とホテル地下のバーでお酒を呑み、それなりに酔ってから部屋に戻った。本を読んで頭を落ち着けてから、大浴場に行って風呂に入り、ぐっすり眠った。
翌日は7時過ぎに起きて朝食をとったあと、父が散歩に出るというので、ぼくもすこし遅れてホテルを出た。散歩をするつもりはなかったが、すこしばかりギターの練習がしたかったので、持ってきていたギタレレを近所の公園で弾いた。
昼前に身支度を整えてから式場に移った。親族顔合わせののち、教会風の建物で式が行われた。神父は登場せず、司会者がはきはきと進めていった。父親に連れられて妹が入ってきた。知っている顔ではあるが、しかし同時に花嫁でもあるのだった。ぼくには知らない妹の世界というものがあるのだろう。
披露宴に移った。ぼくはのんびり呑んだり食べたりしていた。祖母が途中で妹から花束をもらい、涙していた。最後に両家の両親が新郎新婦の横に並んだ。ぼくはなぜか、着物を着て、なで肩の(自分の)母親を見て、「あぁ、昔の日本人なんだなぁ」と思った。
4時になるころ部屋に戻ってきた。その後父とすこし市内をぶらついたすえ、ファミレスに入って夕飯を食べた。「もうこっちに来る用もあまりないな」と父は言った。妹は東金で暮らしていくのだろう。
翌日、9時ごろホテルを出発し、東京駅でお昼ごろ祖母と父を見送ったあと、ぼくはいつものように帽子のつばの下からややにらむように前を見つめながら、駅の地下街を歩いていた。