もし、楽しいことを考えて体が浮くのなら、陰湿なことを考えたら体が沈むだろう。ぼくは飛べない。
毎日2時間勉強することにしているけど、最近はお酒を呑んだり映画を見たりしていて、実質勉強時間が食いつぶされている気がする。継続は困難なり。ただ夜更かしする習慣だけが続いている。前よりすくない睡眠時間でもやっていけることはわかったけど、いいのかこれで、という気もする。
意味のあることに時間を割きたいと思っているが、そもそも意味のあることってなんだ。勉強することに意味はあるけど、だらだらすることに意味はない、みたいな、そんな感じなのだろうか。近ごろあまり余裕がないので、酒もたばこもやめられないし、音楽も映画もやめられない。どうもぼくは空き時間は本を読むか詩を書くかしている状態を理想と思っているようだが、そのとおりにはいかないこともしばしばだ。一体なにをするのがいいんだろうね。
電子たばこをふかしている。とにかく部屋がさむく、なにかしていないととても耐えられない。酒がほしくなるのはさむいせいもあるだろう。なんでもかんでもさむさのせいにするつもりはないけれど。なにかをする、しないはたぶん情熱の問題だ。
今日いちにちに正解はない。そんなことは知っている。間違ったってかまわない。でも、できれば「今日を過ごしてよかったかもしれないな」と思いたい。「今日がなんだっていうんだよ」とはあまり思いたくない。実際は「今日がなんだっていうんだよ。おれにはなにもないよ」と思っているわけだけれど。なにかを求めてあがいているのかもしれない。このあがきに意味はあるか。求めているものに近づけているのだろうか。なにを求めているのかも、正直、わからない。わからないのならわからないままでもいい。わからないという自分の感覚さえ覚えておけば。
なにを悩んでいるのだろうか。そもそもぼくは悩んでいるのだろうか。悩んでいるふりをしているのだろうか。生きていてもしょうがないと思う。この「生きていても」の「生きる」の範囲はひどく狭いものと推測される。この「生きていても」の対極に死を持ち出すのはやりすぎだ。死は生がわかっている人間のためにあるのだ。ぼくは生きるということがわかっていない。食わず嫌いという言葉があるのなら、ぼくは生きず嫌いである。
ぼくはぼくであることをやめたいけれど、この世でぼくはぼくでしかない。ぼくはぼくから離れられない。生きることは死ぬよりつらいなどと言えば、言い過ぎだろうか。きっと言い過ぎだろう。それでもぼくは、ゴールの見えている人間はゴールの見えていない人間よりも不安にならずに済むだろうと思ってしまう。
自分のことを勝手に決められるのがいやだから、これまで好き勝手に生きてきた。今もそうだろう。そしてむなしい気持ちになっている気持ちになっている。充実ってなんだ?満たされるってなんだ?満たされなきゃいけないものか?
朝起きたら、自分が死んでいた、とする。どんな気持ち?あぁ、もうコーヒーは呑めないんだなぁ。仕事に行かなくていいんだなぁ。昼休みにギターが弾けないなぁ。ぼくが死んだら、ぼくのことを思い浮かべてくれるひとのなかのぼくが死ぬんだなぁ。誰もぼくに会えなくなってしまう。それもいいのかなぁ。わからないわからないわからない。
「生きたくて生きてるわけじゃないけど、死にたくて死ぬわけじゃないんだよ。おれはおれの生死について、なんの決定権もないよ。生きることも死ぬこともあきらめてるよ。もう、ほっといてくれよ。」