はじめにことわっておくが、これは自殺しないための書きものである。
いち。市役所の自殺課は自殺希望者でいっぱいだった。もちろんぼくも申請はしたが、何年も自殺待ちの状態だ。ただ死にたいというだけでは役所は死なせてくれないのだ。経済状況や病気の有無、家庭の事情などこと細かく調査された。ちなみに自主的な自殺はいっさい禁止されている。心臓のスイッチは国家が握っている。生きることは権利でなく義務となったのだ。
に。クルマに乗って谷間に突っ込もうとか思うこともあると思う。公道で人間がクルマを運転することは禁止されている。サーキットで運転できるのは一部のかねもちだけだ。貧乏人はただもう生きるしかない。貧乏だから生きるのだ。実際かねもちに自殺者は多い。
さん。ぼくのいちばん大切なひとはだぁれ?もしそのひとが殺されてしまったらぼくは悲しい気持ちになる?ぼくはその犯人に愛を感じる?そのひとに抱かれながら「いっそのことわたしをもあやめてください」と言える?
し。ぼくはひどく酔っ払って会社の後輩のクルマで吐いた。ぼくは彼女が逆にぼくの赤いクルマで吐いたら笑って彼女をゆるすだろうか。きっとぼくは渋い顔をすると思う。そうでなければ、、、
ご。自殺はやむなくさせられるのか、それとも自ら志すのか。ひそかな夢か。刷り込まれた夢か。
ろく。人生とはその日々においてゆるやかな自殺であると言えなくもない。生きているとはつまり死をおびき寄せる行為なのだ。
なな。この世に死を経験した者はいない。死は経験できないものだ。いや、経験して語ることのできないものだ。死について語ることは生について語ることの範囲を出ない。
はち。ぼくがこの世からいなくなり、誰もぼくがこの世にいたことがわからなくなり、あるいはもう人間すらこの世にいなくなったとき、ぼくはぼくの生に誇りを持てるだろうか。生きていたことには意味があったと言えるだろうか。
く。生きているということが結果なら死んでしまったということも結果だ。生を比べてはならないし死を比べるのもいけない。
じゅう。死ぬのは自由なのだろうか。自由とは死ぬことだろうか。ぼくはぼくの意思によって生きるものではない。生きているのはぼくではない。ぼくは生きていると詐称しているが、ぼくはぼくの生命を自分のものだと勝手に主張しているにすぎない。
じゅういち。あなたのことをいちども抱くことができなかったけれど、あなたのことを今再び好きだと思うし、変わらずあなたのことを抱きたいと思っている。
じゅうに。ぼくはなにを持って生まれてきたのだろう。自分で持ってきたものはなにひとつなかったのではないか。全て与えられて生を受けたのではないか。死ぬときぼくは全てを失って死ぬのか。ぼくはできることなら、全てを与えて死にたい。