自己肯定感の低下

なんじゃそりゃ、という感じだ。もう電気の走らないカーペットの上にすわり、正座してひざかけをかけ、ノートパソコンをひらく。

昨日父親の契約していたWi-Fiが切れた、というより父親が解約した。わたしは、自宅ではたぶんここ3年くらいそのWi-Fiに頼ってほそぼそとネットをしていた。料金は父親が払っていたので、わたしはただで使わせてもらっていたのだが、ちょうど更新の時期となり、父がわたしの通信料を肩代わりする理由も特にないので、父は電話口でさんざん待たされた挙句に契約を解除した。これまでありがとうございました。

わたしはルータに電波が来なくなったことを見届け、その日の夕方、瞬発的に伊勢崎のスマーク(ショッピングモール)に行き、Wi-Fiを契約して新しいルータを持ち帰ってきた。毎月4千円強の出費となる。ネットなしの生活も悪くはないと思うが、わたしはネットが好きなので、甘んじて受け入れることにする。クリエイティブな作業に充てられればなおよい。

自由とはつまり未決定のことを指すのだろうか。わたしの心はいよいよ未拘束である。たぶんなにを考えてもいいのだと思う。茫漠としている。わたしは折にふれてたばこを吸い、そのたびに自分などクズだと思う。たぶんそんなことはない。が、いっそのことクズになってしまえと思う。

「なにをしたらいいのかわからない」

そうだよなぁと思う。この疑問は苦しい。わたしはさっきウイスキーを呑んだが、この疑問に答えることはできない。玄関の花が少しずつ背を曲げていく。毎週新しいお花を飾ったらいいんじゃないかと思う。お客が来るかどうかは関係ない。自分が花がほしいと思ったら花を生けてみるのだ。

わたしは思うのだが、「なにをしたらいいのかわからない」頭にはしばらく休んでもらえばいい。わたしはそう考えながら、しかしなにかしらを日々成している。気にすることはない。たばこの本数も、酒を呑む回数も、いずれ収まるだろう。生にしがみつく必要はないが、死を熱望する必要もない。わたしは近頃、自分が死にたいと思ったとき、「あ、これは自分の十八番のネタだ」と思うようになった。自殺願望、それはわたしの脳内アートなのだ。死そのものは、わたしの手には負えないものだ。必要なときに向こうから来てもらえればそれでいい。わたしがわざわざ呼び寄せる必要はない。ま、密かに待ってはいるけれど。

実らぬ恋、と書いたところでこれまた自分のネタなのではないかという思いに至る。すべての恋愛は深刻なジョークなのだろうか。わたしはそろそろ恋愛3.0に進みたい。わたしに恋愛は無理だ。わたしは恋愛にあこがれているにすぎない。決してたどり着けない恋。ならばわたしは行かねばならない。「なにをしたらいいのかわからない」

やっぱり寒いね。酒を呑んでもあたたまらない。暖房をつければ解決するのだろうか。大体解決するだろう。わたしはしかし、自分で自分に暖房をつけることを禁じているのだ。ばかである。世の中に対してすねているのかもしれない。「誰もぼくのことを気にかけてくれないなら、ぼくはぼくの部屋で凍えてやろう。ぼくの心の寒さは、おまえたちにはわかりはしない。ええい、ほうっておいてくれ。ぼくはあたためる価値のない人間だ。死にたくはないさ。しかしきみこそ、冬の寒さを知らずに死ぬつもりかい?いやいや、大事なのは温度計で見える寒さじゃない。氷の張った心の湖の深淵さ。きみはそれをのぞきこんだことがあるのか。」

「ぼくは、好きじゃない、なにも」

「ぼくは、だれにも、見放される」

風が鎧戸をたたく。わたしはなにを肯定したらいいのかわからない。わたしはなにを頼ればいいのだろう。わたしは、よくこれまで生きてきた。今もよく生きている。これからも、よく生きていく、かもしれない。わたしの価値はわたしではないひとかわたしではないものに決めてもらいたい。

わたしは、あなたに会えそうもないので、あなたのことを考えながら眠りにつきます。

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