日記という思い出 Mar. 7th

まだ3時過ぎだというのに日記を書こうとしている。まだ何をしたわけでもないのに日記を書こうとしている。暇なのか。

コロナである。コロナのせいにしたい。以前私は休日にやることには事欠かなかったが、最近は本当にやることがない。困っている。無理にでも出かければ、それなりに楽しい思いもできるだろうが、なんというかその気も起きない。ちょっと前まで自転車に乗るくらい多少は構わないだろうと思っていたし、今も思うだけなら思っているが、1ヶ月以上自転車も乗っていない。運動らしい運動は、日課の腕立てと、事務所に行くときに歩いているくらいだ。

バイクに乗る妄想と海外旅行か海外移住の妄想でなんとか生きていた。バイクの免許は今月試験に受かれば取れるだろう。普通免許なのでハーレーは乗れないが。当初はハーレーに乗るつもりで教習所に通い始めたのだが、免許を取るまでの期間が長すぎて、普通だけでも心が折れそうなので、とりあえずハーレーではない中型のバイクを買うかもしれない。で、バイクの情報をネットで見るのは楽しいのだが、これはかなり中毒性があり、もう見るのも疲れたのだが、やはり見てしまい、また疲れるという愚かなサイクルを繰り返している。

海外旅行は全く現実的ではない。アイスランド語の勉強だけ細々と続けている。役に立つのかは知らない。

最近感じていることは、コロナ禍だから〜しよう、新しい趣味を始めようみたいなムーブメントもあるが、個人的にはコロナ禍では根本的に無理なこともあると思っている。それに加え、普段より精神状態が不安定なのであるから、妙なことをすると精神状態が悪化する可能性もある。難しいのは、何もしないでも精神状態は悪化するし、何かしても精神状態は悪化する、ということで、このバランスをとるのが困難、ということなのである。

コロナ禍で時間ができても、その時間から注意をそらす誘惑の多いこと多いこと、という感じなのだが、普段と違うのは時間がある、ということだ。そもそも時間がなければ自分にとってつまらないことは次々に排除されるし、スマホをみる時間もずっと減るのだ。時間がある結果、気が散り続ける時間を過ごすことになり、何もしてないのに消耗する、という謎の状態に陥る。

いやもうこの際、何もしていないという状態は歓迎してもいいと思っている。何もしていないが平和だったという1日で十分ではないだろうか。この事態で向上心を持ち続けることは立派ではあるが、それは万人の義務ではないはずだ。

金曜日にどうにも調子が悪くなって午後から会社を休んだ。仕事がハードだったせいもある。もうひとつなんか裏にあるかもしれないと思うのは、先週とあるマッチングアプリに登録して、毎朝それをチェックしていた、ということがあるのだが、これが自分にはよくなかったのかもしれない。たぶん、よくなかった。世の中の〜活というものは大体良くないのだが、恋活は a little bit harmfulである、少なくとも私には。

いろんな自分を肯定するしかないと思っている。このしょうもない日々を切り抜けていくには。

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