今再び問う

そういえば、昨年の春、わたしは仕事をやめようかと思っていたのだった。

10時から15時まで自転車に乗り、その後19時まで自転車屋にいた。帰ってきたのは19時半だ。小規模の峠越えを5本やり、体はすっかりお疲れモードである。月末にレースに出るかもしれない。出ないかもしれない。出るかもしれない。

牛乳を温めてカフェオレを淹れた。うまい。カフェオレは家で飲むのがいちばんいい。納得の味だ。

昨夜寝る間際に Renaudの Adieu Minetteのコード譜をネットで見つけ、さっそく今日弾いてみた。知っているコードだけで弾けたので、もう少し練習すればなめらかに弾けるだろう。

明日は雨らしい。そして東京マラソンとのことだ。東京に本を買いに行こうかと思っていたのだが、やめたほうがいいかな?マラルメの散文集と広東語のテキストがほしいのだけれど。

仕事を失えば不安な気持ちになるだろう。ならば失ってみるのも手ではないか。なるほど理由もなく仕事をやめることは理にかなってはいない。ならば尋ねるが仕事を続ける理由はなんだ。不安な気持ちにならないためか。

今のわたしにとって職場とはバーチャルリアリティーのようなものなのだ。わたしはバーチャルリアリティーのなかでの処世術ばかり身につけているが、いったん職場を離れればまったくの無力であろう。

わたしは自分が無力であることをかみしめたいのだろうか。わけがわからない。わたしはなんでもやりたいという類の人間ではない。わたしはいやなことが多いので、なるべくなら自分のすることは絞りたいのである。

わたしは仕事自体に興味はない。わたしの興味など、仕事をするうえではいちいち相手にしていなかったが、思えばわたしは興味のないことをやり続けているのだとも言える。

わたしは仕事が大嫌いである。なぜなら仕事をしたくて仕事をしていることはほとんどまれで、大体の場合はその日仕事をすることになっているから仕事をしているだけだ。仕事はわたしの気分を問題としていないのだ。

給料とはそのようにして得るものだというご意見は、現状において的確である。しかしそれは現状を的確に捉えているだけだ。わたしは個人の目線で話がしたい。わたしは1人の労働者であるが、わたしはわたし自身を1人の労働者として扱っているわけではない。わたしはただのわたしである。

最低限の話として、生活費を稼ぐことというのが、大人の人生のスタートライン、なのだろうか。「生活費を稼ぐこと」から考え始めると、わたしはつまらない思いにとらわれる。わたしの気分のなかでは、生活費を稼ぐことはわたしの気分に訴えるものではない。

暴論かもしれないが、お金よりもわたしの気分を優先していきたいのだ。気分がのらないことを無理して続ける必要があるのだろうか。お金のことを考えていてもお金は動かない。お金とは実体のないものだから。

わたしはつまらないことが嫌いだ。つまらないことをするくらいならなにもしたくない。なにもしなかったら死ぬぞと言われたら、おもしろい死に方を考える。

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