たったひとりでもいきていく

「努力した結果の成功体験なんてない。努力がそのまま成功体験なんじゃないの?」

電気カーペットがこわれてしまった。こわれたカーペットのうえでパソコンを開く。思いのほか外は寒さがゆるみ、部屋のなかはまあまあ過ごせる感じだ。春は遠くない、かもしれない。

今夜は会社の新年会があり、定時になってすぐ帰った。ギターの直前練習をしようと思ったのもつかのま、たいへんな腹痛に襲われ、トイレにかけこんだ。お得意の下痢である。お腹のなかは見事に洗浄された。3分ほど横たわる。会社での集合時間が近づく。ギターを背負って自転車に乗り、夕闇のなか事務所へ戻った。すでにバス利用者は全員集合済み。点呼をとり、会場へ向かった。

おとなしい夜景を見ながらの会食。ぼくはお腹の調子を案じ、演奏の前には飲むまいと決めた。わりとすぐ自分の番が来てしまった。本当は12番まである曲なのだけれど、6番まで歌って途中で歌詞を忘れて止まってしまい、退場となった。あっけなかった。まるで自転車のレースのようだ。ぼくは手を抜いた覚えはないのだが。観客心理からすればフレンチポップも指弾きのギターもあまり面白くなかったのかもしれない。ぼくの自己満足だったのだろうか(満足しているわけではないけれど)。

その後、ウイスキーをストレートで1杯だけ吞んだ。昨年同じ会にてウイスキーを飲み過ぎてぐでんぐでんに酔ったことを思い出し、無理に飲むことは控えた。コップは空にしたほうが気分がいいが、全部飲む必要はない。体調がなにより優先である。今日は1杯で十分だった。

「もうちょっと練習をして」という声もあり、それはそのとおりではあるが、「一生懸命やってこれなんだよ」という感じも自分ではしている。要するに向き不向きあるのだ。自分では向き不向きと上手下手はどうでもいいと思っていて、好き嫌いと続くか続かないかのほうが重要だと思っている。

たったひとりでもいきていく。たったひとりでもギターを弾く。たぶん、たったひとりでも○○する、というのが大事なんじゃないかと思う。孤独の友は空白だが、空白のなにもなさになにもない充実を感じられるかどうか。ぼくは愛とは想像力だと思っている。

人並へのぼんやりとしたあこがれ。人並という考え方も、それへのあこがれも、要らないと思われる。まず自分の人生を見ろよと思う。なにか大きなことを成し遂げなければならないということはない。奇跡とは奇跡でない。きっと奇跡を受け入れる覚悟を決めるべきなのだ。よろこんでみようと思うひとのもとによろこびは訪れるのではないだろうか。あくまで自分の目線でかまわない。かまわないが、きっかけはなんであれ、自分の目線を棄却するときに、この世の輝きの片鱗を目にするのではないのだろうかと、近ごろは考えている。

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