おなかとせなかがくっつくぞ

山形は新庄の外れの山の中の温泉宿でお腹をこわしている。たぶんロングドライブで胃腸がよわってしまったのだ。なまぬるいお茶をのみながら若山牧水の歌集を読んでいる。牧水はロマンチストのように紹介されることもあるが、その歌は「覚悟」や「あきらめ」や「絶望」を感じさせる。

今日は4時に起き、20分後にはクルマを出した。カーナビがかなり古いので、スマホでナビをかけるのだが、画面が見えないし、音も聞こえないときがあり、不便な思いをしていた。骨伝導のBluetoothイヤホンをつけてみたら、なかなか良い感じで、少なくとも音を逃すことはなくなった。

あまり道路の下調べをしていなかったので、ナビどおり進んだ。高速道路は避けてある。佐野から栃木へ抜けるときに空荷のトラックにあおられ、死ぬかと思った。雨が降り始め、雨足が強くなった。鹿沼から日光にかけてどしゃ降りで、ぼくは運転席に閉じ込められた。鬼怒川のコンビニで7時ごろ休憩し、トイレを済ませ、たばこを吸った。以後休憩のたびにたばこが手放せなくなった。

国道121号を進み、南会津に入ったところで道の駅たじまで再び休憩。9時ごろ。山はところどころ紅葉しており、紅葉ツアーとなった。助手席にだれかいればなぁと思ったが、誰が朝の4時からオール一般道のドライブに付き合ってくれるだろうか。ひとりでも十分にくるしい。

山を抜けて会津若松の外れを走る。その後のことをあまり覚えていないが、たぶんまた山道に入ったのだろう。また雨が降っていた。いつのまにか県境を越えて山形県に入っており、米沢に向かう手前で121号を外れて、抜け道から川西町へ入った。長井市の市街地手前で道に迷う。ナビの案内する川沿いの抜け道が通行止めで、来た道を戻ったりした。ナビに悪態をついたが、ナビに頼る自分がいけないのだ。12時も過ぎていたのでコンビニに寄り、地図と弁当を買って、地図を見ながら車内でウトウトした。

自転車で同じルートをブルベ的に1日とか2日とかで走るのは無理だろうなという気がした。けっこう山越えが多いし、基本登り基調なので、体力を消耗するだろう。山道では危ないときの逃げ場もない。ブルベトレーニングの下見も兼ねていたが、ぼくの夢は軽く潰えた。

以後大きく迷うことはなく北上した。最上川沿いの道は景色も最高だった。写真を撮っていないのが悔やまれる。同じルートを走ってくださいと思う。一緒に走りましょうと思う。特に自転車の場合、景色は宮沢賢治ふうに言えば、mental sketch modifiedであるから、これはもう多少とも体に痛みを与えてあなたの見える景色を描きだしていただくほかはない。(写真を撮らない言い訳でした)

昨夜5時間くらいしか寝てないせいか、はたまたすでに運転のしすぎなのか常にねむく、ほっぺをたたいたり歌ったりしながらなんとか進み続けた。ちなみに自転車のボトルでJET VALVEというのがあるのたが、これはドライブでもおすすめだ。片手で走りながら水が飲める。助手席に誰かいなくても大丈夫だ。

高速道路は避けていると書いたが、東北中央自動車道(無料区間)は通った。料金ゲートはない。制限速度は70キロだ。高速がタダ?意外である。山形県の配慮なのだろうか。気持ちよく走れる。整備を進めてほしいが、新庄の先でとりあえずは終点。

16時くらいで、宿へ向かっていた。どんどん市街地から離れていくので、食事はどうしようかなと思っていた。素泊まりで予約していたので、近くに食べるところがないとメシ抜きになってしまう。最悪抜いてもいいと思ったが、スーパーとかコンビニに全く行き当たらないので、やはり不安にはなった。ゆるやかに山へ入っていく。道のどん詰まりのところに、こじんまりとした温泉街があった。羽根沢温泉というようだ。

集会場の駐車場がいっぱいだったので、ホテルに確認して奥の空き地に停めた。まず風呂に入る。熱い。どっと汗をかいて、あとで少しさむかった。フロントで朝食をつけてもらいようお願いする。夕飯の話をすると、隣の食堂がやっているとのことで入ってみる。やっている気配がなかったので、店のなかで電話をかけたら、奥にいますよと言われ、準備をしてくれた。カツ丼を食べる。お客はその後ほかにも入ってきた。値段は街中の定食屋と変わらない。おそらく何十年も価格を変えていないと思われる。

駐車場に寄ってたばこを取り、部屋に戻る。昼間買ったグラビア目当ての安っぽい雑誌を読んでいたらなんとなくさむくなり、しばらく寝てしまった。21時過ぎに目が覚め、トイレに行った。

グラビアはまだしも、やや興醒めな雑誌でげんなりした。ぼくも安っぽい男である。袋とじを指でべりべり開けた。自戒も込めて言うが、他者を思慮なく攻撃ないし批難する行為をぼくは好まない。

黙って慎ましく生きたいと思い、黙って慎ましく生きろと自分に言ってみた。あほである。黙って慎ましく生きろと言った自分こそ黙って慎ましく生きるべきだ。これはとんでもない矛盾である。ぼくは単に、自分も含めて意味もなくひとを傷つけるのはよくないねと思っているだけだった。

生きることにびびっているのだろうか。あるいは萎れているのだろうか。ああ、質問される、というか自問しているのだが、あまり自問するとつぶれてしまう。

自分につきまとう自分を殺そうとすれば、自分につきまとわれる自分も殺すことになる。

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