いよいよ明日出発となってしまった。風呂上がりに爪を切り、荷物の最終チェックをする。革ジャンにつける毛の裏地をカバンに押し込んだらもうこれ以上荷物が入らない。辞書と本をあきらめるか、ぬくもりをあきらめるかだ。
なにやら緊張している。海外は6年ぶりの2度目。前回は自転車旅で3週間くらい行っていたが、今回は主にクルマで1週間。今回のほうが不確定要素は少なそうなものだが、実のところクルマには苦手意識があり、初の海外運転にびびっている。これはもう尻尾を巻いてひきこもるか、覚悟して乗るかのいずれかだろう。明日はフライトで、明後日はのんびりデーなので、本格決戦は月曜からである。やったことのないこと、慣れていないことをするのは骨が折れるものだが、たぶん骨を折りに行くのだから甘んじて受け入れるしかないだろう。
表向きはドライブをしに行くのだが、わたし自身は書きものをしに行くつもりでいる。なにを書くのか知らないが。ラブレターを書いてはいけない。これはだめだ。せめて詩を書こう。散文でもよい。わけがわかってもわけがわからなくてもよい。
せっかく海外に行くのだ。日本でのわたしのねばつく妄想はいったん全て破棄する。わたしが行うわたしの挑戦はいずれも、自殺の代替行為である。「死ぬくらいなら○○してやるぞ」という思いで今日まで生きてきたような気がする。わたしは死ぬのと同じくらいわたしを鼓舞してくれるものに触れようとあがいてきたのだ。わたしが自殺しないのは、自殺が自分の自分に対する陰謀だと思っているからにすぎない。自分などちっぽけなものだ。これに騙されるのはいいが、騙されて死ぬのはいけない。生きるというのが真に死ぬことなのだ。死ぬことで生きようとしてはいけない。
あと少し本を読んだら、ウイスキーをなめて、寝よう。
以前、不特定多数の人間に向けて書くのはむなしいとわたしは嘆いた。しかし、だれかのために書くとはどのようなことなのだろうか。だれかのためを思いながら書くことが、そのひとのためになるのだろうか。わたしはただわたしを炙りだすだけではないだろうか。しかしわたしがわたしを突き抜けてしまうとしたら、わたしはどこにたどり着くのか。
わたしはなにを相手にして生きているのだろう。感情か、あるいは魂か。運命とは主体にとって味気のないものである。しかし主体が自身を駒だと気づくとき、そこに、(中断)