大学時代、ぼくは死にたいと思っていたに違いない。そう思いながら4年間過ごした。ぼくはたいていひとりだったが、大学はひとりでいてもべつにかまわれないところだったし、「死にたい」と勝手に思う自由もあったので、そういう意味ではすこし楽になったのかもしれない。「まわりの人達はどうしているの」と問われても、知り合いはほとんどいなかったので、どうしているかなんとなくしかわからなかったし、正直あまり人のしていることに興味もなかった。
ちなみに、大学時代に特にお世話になった先生が2人いるのだが、1人は在学中に、もう1人はぼくが卒業後まもなく、病気で亡くなってしまった。身近な人が亡くなるショックのようなものを、このゼミの先生が3年次の夏に亡くなった際にはじめて感じた。授業以外で話したことはほとんどなかったが、詩の先生としてリスペクトしていたので、しばらく茫然自失となっていたと思う。
就職活動の波が迫ってきたとき、ぼくは行き場がなくなった。就職したい気持ちは当初ほとんどなかった。自転車が好きだったから、自転車メーカーなどを中心に何社か回ってみたが、自転車に関する仕事にそこまで興味が持てなかったのか、そもそも仕事がしたくなかったのか、途中で就職活動を放棄し、毎日書き物をしていた。ら、父親に説教され、怒鳴られ、ノーチョイスとなり、よくわからないまま4年の春に就職活動を再開した。つらさにランキングなどつける意味もないが、この時期はつらい時期ベスト5には入るように思う。根本的なやる気のないまま面接に行く滑稽さよ。履歴書を書くたびに手が震えた。ぼくはうそでも書いているんじゃないかと思った。
ふたたび夏になり、半分ヤケ気味となっていたぼくは、遠足気分で遠出しながら就職活動をスローペースで続けた。結局栃木県足利市にあるメーカーから内定をもらえたので、そこに行くことに決めた。ぼくは、親に説教され、怒鳴られ、ノーチョイスになるなどという展開はもうごめんだと思った。ホームタウンである川崎、高校に通った横浜、大学のある東京、いずれの都市にもしばらくさよならしたい気がした。
つづく