恋がみのらなかったとき

恋がみのらなかったとき
わたしはかんがえる

恋がはじまるまえに
わたしがしていたこと
わたしにおこったこと
恋がおわってから
わたしがしていたこと
わたしにおこったこと

そして
わたしはかんがえる

恋の最中に
わたしがしていたこと
わたしにおこったこと
あなたのこと
わたしのなかでの
あなたのすべて

わたしのこころは
そして
ふたたび
羽をひろげる

日光へ行こうⅡ

ぼくは再び日光へ向かった。2日前のことである。今度は輪行袋も持たず、いつものトレーニングと同じ格好・荷物で行った。全て自走の計画で、トラブル時以外逃げ道はない。

4時半に出発。サイクリングロードは早朝散歩をする方々で賑わっていることがわかったので、空いている車道で桐生へ。6時半過ぎに大間々のコンビニにたどり着く。今回は水沼から国道122号線を逸れ、県道62号線で沼田方面へ向かう。赤城山の裾野を東から北へ抜けていく感じになる。直線的な上りが容赦なく続く。道は整備されているが、休憩できるポイントはほとんどなく、山の中を奥へ奥へと入っていく。

長いトンネルに突入。フロントライトの電池が少なくなっているようだ。次のコンビニで電池を買わなくては。トンネルを抜けると、また上りが始まり、足にくる。ふつうに峠道となる。なかなか頂上に着かない。沼田市に入って頂上通過。今度はぐんぐん下る。

せっかく標高をかせいだのになーと思っていると、根利川沿いに道は進み、薗原ダムに着いた。このあたりからぼくの補給は切れ、暑いなか気合いだけで進んだ。しばらくして沼田から来る国道120号線と合流。老神温泉を通過。

コンビニを発見したので避難。9時を回ったところ。2度目の朝食を摂る。飲み物もペット2本購入。ライトの電池も入れる。金精峠まで40キロとスマホでは出た。

気合いを入れて再出発。ゆっくり標高をかせぐ。バイクは多いが自転車は見ない。まだ傾斜がそれほどでもないので、ペースは早め。尾瀬方面への分岐点をスルーし、いよいよ丸沼高原を目指す。

とうもろこしの直売所を見かけなくなると、いよいよ本格的な上りとなった。本当に今日は上りばかりだ。インナーローからギヤを落とせない。日照りはまぶしいが、風は涼しく、湿気も我慢できる範囲。なんとなくジロでも走っている気分になり、悩みも少なく高みを目指した。

丸沼高原のドライブインで休憩。峠まで12キロ。時刻は11時10分。お茶を買う。スキー場のあるところまで人力で来るなんて、ちょっとどうかしている。そしてまだ上るとは。。

いよいよ高原の雰囲気濃厚で、空気は薄く、空が近い。涼しい。峠は近い。そう思いつつペダルを回す。写真くらい撮っておけばといつも思う。でもいつも撮らずじまいだ。

丸沼を通過後、しばらくして菅沼が視界に入る。かなりいい景色に違いないが、感覚が麻痺しているため、足を止めずそのまま金精峠へ最後の上りに挑んだ。ラスト2キロ。

前回は気になってはいたけど、来れなかった金精峠。これを越えられれば未練はない。日光側から下ってくるサイクリストをちらほら見かけた。彼らは上って日光だが、ぼくは下って日光へ行くのだ。

ついに金精峠のトンネルに着いた。感無量。トンネルを抜けると奥日光だ。ぼくは「セイヤっ」と勝利宣言をした。下りに入る。地面に吸い寄せられるようにスピードが上がる。奥日光を過ぎ、そのまま戦場ヶ原へ。

12時半。ぼくは戦場ヶ原の食堂でカレーを食べ、アイスコーヒーを吞んだ。

日光へ行こうI

「今日もクリエイティブなことがなにひとつできやしない」

「クリエイティブな行為とはどのような行為か」

昨日は早朝から自転車にまたがり、日光へ行った。日光に行きたいと思っていたから。それは小学生時代の修学旅行の美化された思い出を掘り起こしたいという思いからだったのかもしれないが、本当のところはよくわからない。

渡良瀬川沿いに隣町の桐生まで走り、大間々から上り始めた。渡良瀬川沿いの旧道を行く。川は朝日のなかでもやが立っており、いい雰囲気だった。わりといいペースで草木ダムに着いた。背負ってきたリュックが背中で暴れ、うっとうしい。

国道122号線は上り基調。足をあまり使わないようにしながらゆっくり標高をあげる。足尾を過ぎる。しばらく行くとコンビニを発見。コンビニなんてないと思っていたから吸い寄せられた。おにぎりとお茶を買い、休憩する。時計を見るとなんとまだ9時10分。家を出たのが4時30分だから、4時間半は走っているわけだが、ちょっと意外だった。

再出発し、細尾トンネルを目指す。トンネルは3キロくらいあり、満足に歩道もないのでヒヤヒヤする。下り基調なのが救いだった。まぁまぁのスピードは出る。トンネルを抜けてさらに下っていくと国道120号線にぶつかり、左折。いろは坂へ向かう。

第二いろは坂にさしかかる。初のいろは坂。どんなものだろうか。二車線あるのでそれなりに走りやすい。途中フル装備のマウンテンバイクに乗った白人女性から「ガンバッテ」と励まされ、俄然ぼくの気持ちはまっすぐとなり、この由緒ある上りに挑み始めた。

ボトルの水も切れたが、ノンストップで快走し、明智平をスルーして中禅寺湖に着いた。湖畔のお店でお昼休憩とする。11時を過ぎたところ。岸に打ち寄せる波の音ばかり聞いていた。

輪行袋を持って来ていたから、もう帰ろうかと思っていたが、店主のおじさんから、「まだ来たばっかりじゃない。戦場ヶ原でも行って来たら?」と言われ、戦場ヶ原ってなんなんだと思いつつまた走り始めた。

中禅寺湖から更に道は上っていく。足もきつくなってきた。戦場ヶ原手前の売店でパンを購入。戦場ヶ原の観光方法も知らないぼくは、そのまま戦場ヶ原をスルーし、奥日光で池を見ながらぼけーっとしていた。「今日はもう帰ろう」と思った。

13時を過ぎた。道を上ってくるサイクリストも見かけつつ、ぼくは下り始めた。華厳の滝は寄らなかった。もう小学生の思い出などどうでもよかった。ぼくはクルマと一緒にいろは坂を下り、そのままペダルを踏み回し続けて今市まで走り、東武線の下今市駅で自転車を袋に押し込んだ。

電車はしばらく待つと来た。電車はすごいなーなどと思いながら、乗客もまばらだったので、ついぼくはウトウトした。

魂をえぐられるような思い

さざなみのむこうから
ほろりほろりと
ぼくの亡霊の弾く
ギターの音

ぼくはぼくがきみのことが
好きであるということを
信じようとしました
きみがぼくのことを
好きだとは
信じようとしなかったのに

ぼくは次第に
ぼくのことを信じることが
きつくなりました
ええ
だってぼくはきみのことを
どこまでも信じるわけには
いかなかったからです

はじまったときには
おわっているのです
たのしみというものは

ぼくはきみのことを
あまり考えなくなってから
きみと同じかそれ以上にうつくしい
景色にいくたびも出会いました

死ぬまで死にたいと思っているⅣ

夕立も来そうなもっさりした夕暮れどき、ぼくはラーメンチェーン店Kに入った。ラーメンと一緒にコーラを注文すると、店員はたずねた。

「タイミングはどうなさいますか」

無職生活も半年をむかえるころ、ぼくは自転車で知り合ったかたの紹介でもって現在の会社に入った。住んでいたアパートから歩いて10分だったから、引っ越さずに済んだ。ぼくは営業部に配属され、半年ほど研修期間を過ごしたあと、営業担当として主に新規獲得を試みていた。

白状すればぼくはちっともガツガツしていなかった。売り上げが達成できないたびに、心の中では青くなっていたが、あまり気にしてないものと見られていた(ような気がする)。正直自分の売っているものにそこまで愛着を感じられなかった。なんでおれがこれを売っているんだろう、と思うこともあった。

また半年経った。ぼくの営業成績はひどいものだったので、上司らと面談を重ねることとなった。もしやる気があるのかと問われたたらぼくは黙り込んだと思う(実際に黙り込んだかもしれない)。異動の希望はあるか、ときかれた。ぼくはホームページ関係がやりたい、と答えた。スキルはあるのかときかれ、ないですと返した。

クビかなぁ、と思った。2、3日経たないうちに、異動していい旨のお達しがあった。ぼくは命拾いした。

それから半年が3回は経った。ぼくは相変わらずあまり仕事のできないやつだろう。ぼくは仕事のできないことを売りにしてきたから。相変わらずぼくはやる気がない。いや、そこになにか超えられない一線があり、越えようとするとぼくは気持ち悪くなり、拒否反応を示すのである。

「それさ、ほんとにほんとにやらなきゃいけないの?おれさ、ほんとはそれ、やりたくないんだよね」

死にたいかときかれたら、それはいつでもイエスだ。だが、それはこれからのことで、これからのことはこれから任せだ。

今、生きてるのか、死んでるのか、生きようと努力しているのか、全力で死んでいるのか、そういったことをぼくは問題にしたい。

死ぬまで死にたいと思っているⅢ

就職して川崎から足利に引っ越し、ひとり暮らしを始めた。その年の6月にはブログを始め、詩を書き始めた。仕事はそれなりにつらかった。精神は肉体以上に苦悩した。たぶん仕事がいやだったのだと思う。正直、納得がいっていなかった。「なんで仕事をしなければいけないの」、「どうしてお金を稼がなければいけないの」という疑問に、ぼく自身「やらなきゃいけないから」という答えでは返せなかった。なぜ勝手に答えが、しかも答えにもなっていない答えが用意されているのだろう。ぼくは次第にお金自体も嫌いになり、給料をもらうのが気持ち悪くなり、そもそも仕事が好きではなかったので、10月に退社した。

仕事をやめたら天国かなとタカをくくっていたら、そんなことはまるでなかった。いくらお金が嫌いでも通帳の残高が減っていくのを見て平然としているわけにはいかないだろう。お金のこともさることながら、一日中考えごとをしているために、「死にたい」と思う頻度が増え、下手すると起きている間中「死にたく」なってくる。冬にさしかかり、ぼくは寝てばかりいた。

「死にたい」けど、べつに「死にたいわけじゃない」

つづく

死ぬまで死にたいと思っているⅡ

大学時代、ぼくは死にたいと思っていたに違いない。そう思いながら4年間過ごした。ぼくはたいていひとりだったが、大学はひとりでいてもべつにかまわれないところだったし、「死にたい」と勝手に思う自由もあったので、そういう意味ではすこし楽になったのかもしれない。「まわりの人達はどうしているの」と問われても、知り合いはほとんどいなかったので、どうしているかなんとなくしかわからなかったし、正直あまり人のしていることに興味もなかった。

ちなみに、大学時代に特にお世話になった先生が2人いるのだが、1人は在学中に、もう1人はぼくが卒業後まもなく、病気で亡くなってしまった。身近な人が亡くなるショックのようなものを、このゼミの先生が3年次の夏に亡くなった際にはじめて感じた。授業以外で話したことはほとんどなかったが、詩の先生としてリスペクトしていたので、しばらく茫然自失となっていたと思う。

就職活動の波が迫ってきたとき、ぼくは行き場がなくなった。就職したい気持ちは当初ほとんどなかった。自転車が好きだったから、自転車メーカーなどを中心に何社か回ってみたが、自転車に関する仕事にそこまで興味が持てなかったのか、そもそも仕事がしたくなかったのか、途中で就職活動を放棄し、毎日書き物をしていた。ら、父親に説教され、怒鳴られ、ノーチョイスとなり、よくわからないまま4年の春に就職活動を再開した。つらさにランキングなどつける意味もないが、この時期はつらい時期ベスト5には入るように思う。根本的なやる気のないまま面接に行く滑稽さよ。履歴書を書くたびに手が震えた。ぼくはうそでも書いているんじゃないかと思った。

ふたたび夏になり、半分ヤケ気味となっていたぼくは、遠足気分で遠出しながら就職活動をスローペースで続けた。結局栃木県足利市にあるメーカーから内定をもらえたので、そこに行くことに決めた。ぼくは、親に説教され、怒鳴られ、ノーチョイスになるなどという展開はもうごめんだと思った。ホームタウンである川崎、高校に通った横浜、大学のある東京、いずれの都市にもしばらくさよならしたい気がした。

つづく