肉体とは知性的なものだろうか

わたしはしかし
わたしの偏った価値観でもって
恋愛などすまい

わたしはわたし自身にアメを与えて
たまるか
わたし自身の妄想をふくらませて
たまるか
わたしが相手を喜ばせて
たまるか

なんにも
するな
考えてもいけないのだ

語るな

ひどく
感じやすい
心めこころめココロメ

わたしはおまえを
おまえの時間のなかで
火あぶりにするのだ

ギターを弾く暇もなく

土曜日は4時に起床し、15分後には夜も暗いなか自転車にまたがった。横浜は菊名を目指す。いつも南下するときのように利根大堰で利根川を渡り、武蔵水路沿いに進んだ。その後荒川サイクリングロードにのっかる。朝日がまぶしかった。入間川との合流地点では迷わず済んだが、その後治水橋を過ぎて東側を走っていたら河川敷の道路が消失し、道に少し迷った。

結局一般道を走って国道463の羽根倉橋を渡って朝霞市に入り、あれこれ迷った挙句にやっと環八に入れた。環八は走りやすいとはお世話にも言えないが、天気のよい街中を駆けてゆくのはそれなりに気持ちよかった。時折渋滞してあまりペースは弾まなかった。

多摩川も近くなり、瀬田の交差点を曲がらずスルーしたあと、野毛公園のわきを通って多摩川に出て、田園調布エリアを少しばかりなめてから丸子橋を渡った。

綱島街道を一生懸命漕いだが、疲れで足がきしんだ。なんとか菊名駅に着いたのが11時20分。その後ほどなくして目的地にたどり着き、わたしはそこで乗ってきたピストバイクをひとにgiveした。

お茶をいただいて息を吹き返したわたしは、ヘルメットを片手に持って駅に戻り、市ヶ谷へ向かった。

なんとか10分程度の遅刻で大学の英文学会に出席し、懇親会を含めると20時まで大学に滞在した。

なんとか自宅に戻ってきたのは23時も過ぎたころで、シャワーを浴びて床についた。

本日は、サイクリングクラブの走行会で60キロ程度山を中心に走り込み、走り終えてから自転車店で座ったまま時間が過ぎた。

時間がないなどと思うが自分のせいである。愚かである。わたしはギターを弾くのをあきらめて本を読んだ。この日記にも意味があるのかはわからない。

時間が過ぎていく。人間は有意義病である。

What is life?

さっきまで夏目漱石の『こころ』を読んでいた。とんでもない小説でぼくは何度も驚愕した。感想を述べるにも圧倒されている。今日読んでも新鮮な感じがするのは不思議だ。

明日は自分の自転車をひとにあげるので横浜まで乗っていく予定だ。午後は大学で学会に参加する予定なので、早朝出ていくことになるだろう。なぜこうも予定を詰め込んでしまうのだろうか。答えは出ない。答えがないとは言わない。

職場に座っているのはつらいが、夜には本が読めると思ってがまんしている。いつか自転車で長旅ができると思ってがまんしている。空き時間にネットで自転車のバッグなどをぼんやり眺めている。

帰ってきてから月曜に注目したスーツを取りに行き、その後中華料理屋で夕飯を食べた。いつもならビールを呑むが、ねむくなるのを恐れてコーラにした。いつもならごはんをおかわりし、ぼんやりテレビを見てから帰るのだが、時間がないからとさっさと食べて帰ってきてしまった。

気持ちが焦っているなと思い、ウイスキーをショットで一杯だけ呑んで、それから明日乗る自転車を外で整備した。それから『こころ』を読み、最後まで読んだ。今こうしてあてもなく日記を書いている。このブログなど風前の灯火であろう。

作中でKはなぜ死んだのだろう。ぴたりとくる説明はないだろう。覚悟と言った彼は何を覚悟したのだろうか。死ぬことを覚悟したのだろうか。覚悟することを覚悟したのだろうか。

ぼくはぼんやりしている。もちろん自殺する必要もなければひとに隠し事をする必要もない。ぼくは幸せというものに思いを馳せる。幸せの字に辛さが含まれているという論を今思い出し、幸せはもはや辛いものなのではないかとすら思う。と同時にぼくは幸せを追求せずに不幸不幸とつぶやくのが嫌いでもある。なんだろう、ぼくは板についた幸せと板についた不幸を好んでいる。うわっつらの幸せとうわっつらの不幸は嫌いである。特に自分がうわっつらの不幸を身につけているとき、ぼくは自分をきつく軽蔑する。

そんなわけで。自分が自分に与える罰とはどんなものだろうか。受難の際のきらめきをぼくは大事にしたいと思っている。

自殺への階段

はじめにことわっておくが、これは自殺しないための書きものである。

いち。市役所の自殺課は自殺希望者でいっぱいだった。もちろんぼくも申請はしたが、何年も自殺待ちの状態だ。ただ死にたいというだけでは役所は死なせてくれないのだ。経済状況や病気の有無、家庭の事情などこと細かく調査された。ちなみに自主的な自殺はいっさい禁止されている。心臓のスイッチは国家が握っている。生きることは権利でなく義務となったのだ。

に。クルマに乗って谷間に突っ込もうとか思うこともあると思う。公道で人間がクルマを運転することは禁止されている。サーキットで運転できるのは一部のかねもちだけだ。貧乏人はただもう生きるしかない。貧乏だから生きるのだ。実際かねもちに自殺者は多い。

さん。ぼくのいちばん大切なひとはだぁれ?もしそのひとが殺されてしまったらぼくは悲しい気持ちになる?ぼくはその犯人に愛を感じる?そのひとに抱かれながら「いっそのことわたしをもあやめてください」と言える?

し。ぼくはひどく酔っ払って会社の後輩のクルマで吐いた。ぼくは彼女が逆にぼくの赤いクルマで吐いたら笑って彼女をゆるすだろうか。きっとぼくは渋い顔をすると思う。そうでなければ、、、

ご。自殺はやむなくさせられるのか、それとも自ら志すのか。ひそかな夢か。刷り込まれた夢か。

ろく。人生とはその日々においてゆるやかな自殺であると言えなくもない。生きているとはつまり死をおびき寄せる行為なのだ。

なな。この世に死を経験した者はいない。死は経験できないものだ。いや、経験して語ることのできないものだ。死について語ることは生について語ることの範囲を出ない。

はち。ぼくがこの世からいなくなり、誰もぼくがこの世にいたことがわからなくなり、あるいはもう人間すらこの世にいなくなったとき、ぼくはぼくの生に誇りを持てるだろうか。生きていたことには意味があったと言えるだろうか。

く。生きているということが結果なら死んでしまったということも結果だ。生を比べてはならないし死を比べるのもいけない。

じゅう。死ぬのは自由なのだろうか。自由とは死ぬことだろうか。ぼくはぼくの意思によって生きるものではない。生きているのはぼくではない。ぼくは生きていると詐称しているが、ぼくはぼくの生命を自分のものだと勝手に主張しているにすぎない。

じゅういち。あなたのことをいちども抱くことができなかったけれど、あなたのことを今再び好きだと思うし、変わらずあなたのことを抱きたいと思っている。

じゅうに。ぼくはなにを持って生まれてきたのだろう。自分で持ってきたものはなにひとつなかったのではないか。全て与えられて生を受けたのではないか。死ぬときぼくは全てを失って死ぬのか。ぼくはできることなら、全てを与えて死にたい。

kazoku

むかしは田舎から子どもが東京に行ったのだろう
いやいまもそうだろう

ぼくは多摩川をわたれば東京に着くところで生まれた
すぐ近くの小中学校
そして横浜の高校
それから東京の大学に行った

いまや東京にはそのにぎやかなところに父親が
そしてそのはずれに祖父と母親が
暮らすのみである

ぼくと妹はそれぞれ
東京からはなれた

ぼくは家族が去ってしまい
ひとりになった老人のような
気さえする

おれは一生モテない

20時半だ。あと2時間経っても22時半だ。それなりに寝られるだろう。ついさっき牛丼屋で夕飯も食べた。

ネクタイを求めて100円ショップに行ったが、ほとんど種類がなく、1本しか買えなかった。行くたびに種類が減っていく。大事に使えということだろうか。あとウイスキー用のショットグラスを買った。

牛皿定食を食べながら、おれは一生モテないのではないのだろうかと思った。たとえパリで婚活しても誰とも一緒になれないかもしれない。それならそれでいいやと思った。いない人など願ってもしょうがない。連れがいないのならひとり平然と生きるのみだ。

今年の冬は家のなかにテントでもはろうと思った。冬のアパートは身にしみる寒さだ。去年は年末までアルミの毛布をかぶって過ごしたあと、暖房をつけるようにした。今年はテントにこもって冬を越したいと思う。冬は精神的に豊かにならなければだめだ。

まだ秋だ。フランスの地図でも眺めて夢想するのがよいだろう。現実が甘くなる瞬間もいつか来るだろう。

しずかな夜

国道というかバイパス近くのアパートに住んでいるのだが、こんなにもしずかだったろうかと思う。しずけさは貴重だ。なかなか手に入らないものである。

「いずれぼくは死ぬ。だから焦って死ぬことはない。」

「いずれはぼくは仕事をやめる。だから焦ってやめることはない。」

もちろん焦ってもいいのだと思う。ぼくは軽く焦っている。腰を落ち着けて生活を継続することが逆にぼくを不安にさせる。

書くことは焦りなのかもしれない。

夕方から頭痛がしていた。靴屋に一足修理に出して戻ってくるといよいよひどく、ベッドにもぐりこんだ。目がさめると頭痛はおさまっていた。夕飯を食べるのはやめてお茶だけ飲んだ。台所には朝食で使った洗い物がそのままだ。たしか朝はお腹がいたく、片づけをせずに出かけたのだ。

そのまま寝てしまったほうがよかったのだろうが、机に向かうことにした。ぼくは思った。会社に行き、ほどほどに睡眠をとり、三食欠かさず食べる生活と、会社に行き、夜は書きものをし、たまに食事が飛ぶ生活と、どちらがより幸福なのだろうか。極端な話、健康でなにもしない生活と、多少健康を損ねても自分で決めたことをやりぬく生活と、どちらがイケてるのだろうか。

たたかう人間にもたたかわない人間にも天からの報酬はないと思っている。

それでも、たたかう人間にしか見ることのできない景色があると思っている。ただそう思っている。

今日床に入るようにしていつか死ぬのだろうか

ねむい。エズラ・パウンドのThe Cantosが手に入ったので読んでいた。

いつもは早く寝るようにしているが、考えるところがあり、毎晩2時間自分のために勉強しようと思い立ち、ペーパーバックを読んでいる次第だ。

作家になりたいなどとほざいているが、具体的な行動が必要なことは言うまでもない。てっとりばやいのは会社を辞めることだが、わたしの生活はそのうち立ちいかなくなるだろう。立ちいかなくなるのはかまわないと思っているが、困難な道を進んだ結果立ちいかなくなりたいと思っている。

今日床に入るようにしていつか死ぬのだろうか。なにが正解なのだろうか。後悔のないように、と多くのひとが今日は言う。だが、後悔するのは生きてる人間と怨霊だけだ。いくら後悔したところで、後悔を死後に持ち込むことはできない。

死ぬまでの時間を砂時計のように捉えて、ひたすらもがくのが人生なのだろうか。もうこのようにも思う。なにをしてもいい、だがなにをしても無駄なのだ。

なんのためにではない。なんのためでもないのだ。あなたの人生のためでもないのだ。

死ぬことばかり考えていても死ぬのはあなたであり、しかしあなたではない。

ぼくはもう

おまえたちのことが好きというわけではないから
夜寝る前に
おまえたちの名まえを
何度もつぶやいたりはしない
おまえたちのために心をこめて
愛の言葉を捏造したりはしない
おまえたちのことを頭にうかべながら
ひとりパンツを脱ぐこともない

ぼくには今
好きな好きな好きな
好きなひとは
いないのだ
ぼくは今
とても淋しい
ぼくはおまえたちの手を
真剣に握ったことすら
なかったけれど
けれども
おまえたちを好きになっていた時は
今ほど淋しくなかった

ぼくはおまえたちとは
ちがう道をゆくのだ
ぼくは死ぬ前におまえたちを思い出すだろう
おまえたちの宇宙のなかでぼくはその
暗やみの片隅の片隅の片隅に追いやられるだろう

オトナのマニュアル教習3

雨が降ったり止んだりしているが青空は相変わらずきれいだ。運転の休憩中にコンビニの外で突っ立っている。

今日は野田をスタートして結城まで北上し、しばらく50号線を西に走り、佐野藤岡から東北道に乗り南下、久喜白岡ジャンクションから圏央道に乗り換え、境古河で降りた。個人的には高速教習のつもりだった。

まだまだ運転にぎこちないところはあるが、自主的に教習を卒業したいと思う。野田のレンタカーまではそう遠くはなく、無事故で終わりたいと思う。

夕方に横浜で高校のクラス会がある。しゃれた帽子でも被って顔を出そう。