Living Dead

座っているだけでも涙が出てくる
挫折もなにも
ぼくは挑戦すらしていない

あの世への片道切符を渡されたら
ぼくはどんな顔をするのだろう
「まだやることが」
などと言うのだろうか

なにに挑戦するつもりなのだろうか
なにに挑戦しなくてはいけないのか
挑むのではなく挑まれるという道もあるのではないか

生きているのがつらいときは
おれは徐々に死んでいると思うことにしよう
おれは時間を捨てているのではない
人生は時間ではない
生も死も時間ではない
時間はおれを突き放しているように見えるが
もう一度おれは時間に会うことになるだろう

人生はあなたの全てではない

わたしという銃


ふいに熱くなり火を噴いた

わたしは
きっと自らも撃ってしまったのだ
どっと倒れた

わたしは撃ったことを後悔しない
わたしは自分でも手に負えない人間だ
わたしは撃つことを我慢しない
吹っ飛んではじめてわかるのだ
撃ち、撃たれるということはひどく傷つくことなのだと

日記よさらば

思えば前のブログのとき、頑なに詩だけを投稿していた。今思うと大したものだ。毎日詩を書くのは大変だ。詩というスタイルに落とし込む手間もさることながら、精神的な疲弊も増す。その点日記は書きやすい。そんなわけでこのブログも駄文に満ち溢れている。

頭痛がする。月曜頭痛だ。明日には治るだろうか。事務所との相性がよくないのか人生との相性がよくないのかわからない。どちらも考えすぎだろうか。正直、新しい環境がほしい。

昨日マラルメの詩集を読み終えた。正直、フランス語でも1回目では「なんのことやら」と思う箇所がたくさんあるが、マラルメの凝り性と苦悩は垣間見ることができた。少し時間をおいてもう一度読みたい。

さっきまでシーカーズの「涙のカーニバル」を弾いていた。やはり名曲だ。ストロークのパターンがどうも詰まり気味なので、もう少しジャカジャカさせて力を抜きたい 。練習を続けよう。

夜は依然冷える。雨はやまない。何度紅茶やコーヒーを飲んでいることやら。体をあたためてがんばりたいが、すでにやられ気味であることも確かだ。やられ気味なのはいつものこと。やられ気味なのはいつものこと?

借りていたDVDを返してしまった。特に観るべき映画もない。チャウ・シンチー監督の「新喜劇之王」が観たいのだけれど、中華圏でしか上映していないようだ。早く日本でも公開してほしい。してくれないだろうか。映画を観に香港に行きたい気もする。昨日すっかり寝坊したので、東京への本の買い出しに行けていない。

日記よさらば、とある。ちなみにブログに書いているほかに、レポート用紙に手書きの日記も書いている。ので、ブログの日記を仮にやめてもわたしのなかでの日記が消滅するわけではない。日記のほうが更新の頻度が増えるし、詩よりも読みやすいかなと思って日記を多めに投稿しているが、わたしは日記を書く動機を見失った。しばらく日記はやめる。わたしは日記職人ではないのだ。

わたしはわたしの生活をわかりやすく紹介しようとは思わない。わたしの人生のディティールに、他人にとっての意味があるのかというと、おそらくないと思う。

わたしはまた愚直に詩を書いていきたい。意味がなくてもけっこうだ。「意味がなくてもけっこうだ」と返せる事柄に人は熱中すべきなのだ。

今再び問う

そういえば、昨年の春、わたしは仕事をやめようかと思っていたのだった。

10時から15時まで自転車に乗り、その後19時まで自転車屋にいた。帰ってきたのは19時半だ。小規模の峠越えを5本やり、体はすっかりお疲れモードである。月末にレースに出るかもしれない。出ないかもしれない。出るかもしれない。

牛乳を温めてカフェオレを淹れた。うまい。カフェオレは家で飲むのがいちばんいい。納得の味だ。

昨夜寝る間際に Renaudの Adieu Minetteのコード譜をネットで見つけ、さっそく今日弾いてみた。知っているコードだけで弾けたので、もう少し練習すればなめらかに弾けるだろう。

明日は雨らしい。そして東京マラソンとのことだ。東京に本を買いに行こうかと思っていたのだが、やめたほうがいいかな?マラルメの散文集と広東語のテキストがほしいのだけれど。

仕事を失えば不安な気持ちになるだろう。ならば失ってみるのも手ではないか。なるほど理由もなく仕事をやめることは理にかなってはいない。ならば尋ねるが仕事を続ける理由はなんだ。不安な気持ちにならないためか。

今のわたしにとって職場とはバーチャルリアリティーのようなものなのだ。わたしはバーチャルリアリティーのなかでの処世術ばかり身につけているが、いったん職場を離れればまったくの無力であろう。

わたしは自分が無力であることをかみしめたいのだろうか。わけがわからない。わたしはなんでもやりたいという類の人間ではない。わたしはいやなことが多いので、なるべくなら自分のすることは絞りたいのである。

わたしは仕事自体に興味はない。わたしの興味など、仕事をするうえではいちいち相手にしていなかったが、思えばわたしは興味のないことをやり続けているのだとも言える。

わたしは仕事が大嫌いである。なぜなら仕事をしたくて仕事をしていることはほとんどまれで、大体の場合はその日仕事をすることになっているから仕事をしているだけだ。仕事はわたしの気分を問題としていないのだ。

給料とはそのようにして得るものだというご意見は、現状において的確である。しかしそれは現状を的確に捉えているだけだ。わたしは個人の目線で話がしたい。わたしは1人の労働者であるが、わたしはわたし自身を1人の労働者として扱っているわけではない。わたしはただのわたしである。

最低限の話として、生活費を稼ぐことというのが、大人の人生のスタートライン、なのだろうか。「生活費を稼ぐこと」から考え始めると、わたしはつまらない思いにとらわれる。わたしの気分のなかでは、生活費を稼ぐことはわたしの気分に訴えるものではない。

暴論かもしれないが、お金よりもわたしの気分を優先していきたいのだ。気分がのらないことを無理して続ける必要があるのだろうか。お金のことを考えていてもお金は動かない。お金とは実体のないものだから。

わたしはつまらないことが嫌いだ。つまらないことをするくらいならなにもしたくない。なにもしなかったら死ぬぞと言われたら、おもしろい死に方を考える。

つまらなすぎて死ぬ

たばこの小箱が愛しい
吸ってはだめ
吸ってはだめ
つかれてしまった
特になにかしたわけではないのに

舌にしみこむ緑茶
今日はぐっすり寝ていて
朝ごはんをfastしてしまった
ああ
ああ
なにをして生きたらよいやら
わたしは仕事が苦手だ

ギターの練習をするのも
体力がいるもの
わたしの目は死んでいる
雨がしとしとと降り
わたしの心は
無反応となる

裸足でもなんとか過ごせる
わたしはどこへ向かっているのか
この日々はいつ変わるか
わたしは少しずつ
年をとり
わたしは
世の中を決めつけていくのだ
わたしの心が狭くなって
いくのなら
わたしはそんな狭い心に
とらわれる必要もない

ぼくはここだ来てくれ

さけのんでねむくなる
洗濯籠はあふれかえる
綿埃は日に日に大きくなる
ぼくはあなたのことを思う
玄関の花が最後の力をふりしぼる
ぼくは映画を見る
10リットルのごみ袋がなくなる
夜が深まる
あやまってクリアファイルで手を切る
しかたなく皿を洗う
ギターをみがく
ぼくはコーヒーを淹れる
ぼんやりする
ぼくはあなたが好きだと思う
So what?と思う
But, 好きだと思う

心の川ゆるやかに流れる
パソコンを前にまどろむ

Helpless Man

コーヒーを呑んでいたら23時30分になっていた。今から3時間30分勉強をしたとすると、夜中の3時になってしまうが、そこまでしたら翌朝起きられないだろう。

22時過ぎまで映画「カンフーハッスル」を観ていた。とてもよかった。プロットはシンプルだが、肝心なところを押さえているならばシンプルでもグッドだ。子ども心をくすぐるなにかがこの映画にはあると思うが、そもそも子ども心というものは子どもに限定されるものなのかということを疑問に思った。監督・主演のスティーヴン・チャウはぱっとしない青年役を演じるが、この映画の撮影時に、彼は青年と呼べる年齢ではもうなかったはずだ。

話はぼくのことに戻るが、昨夜は珍しく父親が足利まで来て、一緒に夕飯を食べたあと、父は帰路につき、ぼくはバーに居座って飲み続け、結局帰宅したのは3時ごろだ。

今日はまったく起きる気がせず、起きたのは15時だ。16時から17時まで罪滅ぼしに自転車に乗った。その後喫茶店に行き軽く夕飯を食べ、DVD3本を借りて戻ってきた。それで「カンフーハッスル」を見ていたというわけだ。昨夜バーでコーヒーを頼んだら、電動のコーヒーミルが動かず、コーヒーを飲めなかったので、今日は風呂上りに自分で豆を挽いて淹れた。

2週連続の土曜出勤はさすがにこたえたみたいだ。こたえたみたいだというより、いやだったというのが正確かもしれないが。来る水曜日はお休みなので、そこで休みたい。休みたいというか自転車に乗りたい。

むなしい気持ちになるときがある。ほぼ毎日だ。昨日より今日はよくなるものだろうか。昨日より今日はひどくなるものだろうか。今日は昨日と同じだろうか。クオリティーオブライフ。人生のクオリティーってなんだ。

明日への不安。明日へのわくわくより明日への不安のほうが大きい。うーん、そんなに不安になることがあるのかな。ただぼんやりとした不安、というやつ?根拠のないわくわくに懸けてみたい。

相変わらず夜は寒いけれど、だんだん暖かくなるだろうから、ぼくのノーエアコンライフも苦しい時期を終えるだろう。会社の同僚が来月で会社を leaveすると人づてに聞いた。あれこれ話をしていただけに、すこしさみしくなるが、ぼくはぼくで、ぼくのペースで生きていきたいと思う。人にはそれぞれ、「やめどき」というのがあるのだと思う。

なにも本音を言いたくないという本音。「だれにもわかってもらえない」というぼやき。コミュニケーション不足?ぼくは脇役。ぼくは脇役。いやむしろ舞台上にすらいない。でも観客ではない。ぼくは外でなにもしないやつ、そんなやつ。

Always Feeling Sick

ネカフェにいる。作業をするために来たはずだが、今のところ、ポッドキャスト視聴、夕食、喫煙を楽しんだだけである。

たばこを吸うときにいつもほとんどいつも後ろめたい思いがする。もっと言えば、「たばこを吸う自分なんてくそだ」と思うのだが、自己嫌悪に陥りながらたばこを吸うのは不健康だ。吸うなら「ま、吸いたくなるときもあるよね」とのんびりかまえて吸ったほうがいい。

今日の朝はあまり早く起きれなかったので、必要なルーティーンのみこなして家を出た。昨夜弦を張り替えたギタレレを持ってオフィスに行った。オフィスもスーツもあまり好きではないのだが、なにかいい代替スタイルがあるのかというと、無職になる以外に思いつかない。好きな恰好をして好きな時間に仕事をして十分なお金が稼げるのなら、それは almost heavenな気がする。かつてぼくは「自分は給料をもらいすぎている」と思っていたくらいにはお金が嫌いだったので、今の自分が「あぁ、給料が安い、金がほしい」と思うときに、過去の自分の考えを思い出して笑ってしまうことがある。でも過去の自分も正しいし、今の自分も正しいのだと思う。

帰り際に、「これ以上(顧客からもらったドキュメントを)読んでいたら病気になってしまう」と冗談を言ったら、隣から「もうすでに病気じゃん」と突っ込まれた。なるほどぼくはすでに病気で、思い起こせばいつも病気なのだ。

自分の立ち位置を他人と比べる必要はないと思っているが、自分という人間は、時に自分より力のある人間から抑圧を受けていて、時にその恵まれた環境にあぐらをかいて自分より弱い立場の人間を罵倒していることがあるのだと思う。たまには周りを見渡す態度も必要だろう(あれ、矛盾?)。なにもかもあたりまえだと思っていてはいけない。無理にがまんすることはなるべく避けていいと思うし、逆に軽はずみな気持ちで周りの人にいやな思いをさせているのなら、そういった行為は慎むべきだ。

今日は3時間勉強するつもりであったが、無理ゲーな感ありだ。一体なんのために勉強などしているのだろうか。昼間に睡魔に襲われてまで。フランス語の詩を読むためか。ドイツ語の哲学書を読むためか。自分に合う英語の本を読んで頭を休めるためか。いつかコーランを読むためか。I don’t know why.

夜は冷える。起きているだけでもちょっとつらい。昼間がここのところ、だいぶ春っぽくなってきたので、すこし救われた気がしている。ぼくは夏が嫌いなのだが、とりあえず春には来てほしい。花見に行きたい。一緒に花見に行きたい人がいる。

家では特に歌う以外に言葉を発しないが、オフィスではぶつぶつ色々話しており、最近自分の言動にますます皮肉が増え、下手をすると嫌味ばかり言っている気がする。困ったな。困っているから嫌味を言っているのかな。他人のことをばかにしているのかな。ひとりえらそうにしているのかな。恵まれた環境にあぐらをかいているのかな。ある程度はそうなんだろうな。

「おまえには地獄がお似合いさ!」

「おまえは地獄というが、早計だよ。このビルは何階建てだと思ってるんだい。地下1階くらいで文句を言ってもらっては困るね。」

いったいなにがしたいんだろうな。こういう問い自体が間違っているのかもしれないけど。すでにやることはやったのかもしれない。だから「飽きちゃった」のかもしれない。でもここで「増やすな。捨てろ。」の精神が正しいのかもわからない。捨てるならアパートと自転車とギターと本とたばこと酒を捨てる感じになり、それはそれで心痛むけれど、「それで?」という気にもなる。そんなに人生とはユニークなものだったのだろうか。生きて死ぬということは誰にも共通なことなのではなかったか。

I always feel good. 本当?アラビア語では、元気ですと言うとき、「神様のおかげで」というふうに表現するのだが、「神様のおかげで」と切り出すのなら、ぼくもきっと「元気です」と言うと思う。ぼくが元気がないと言っているのは、あくまでぼくの目線から言っているだけであって、ひとりの人間として元気かどうかと問われれば、「いやまぁ、元気だけどさ、元気だけどね、元気なんじゃない」というような答えになると思われる。

小春日和

目の前にパソコンがあるのに、ブラウザのアップデートがしばらくかかりそうなので、スマホから書く。

今日はここのところ一番のマイルドな天候で、全然寒くない。窓を開けているくらいである。ちょろちょろと雨が降っている。

相変わらず仕事は嫌いだが、日によって気分はまちまちだ。今日は比較的よい気がする。天気のせいかな。嫌なことを続ける体力がついたのかもしれない。そんな体力に意味があるのかは知らないが、わたしは無意味なことが嫌いではない。嫌なことは、続けてもやめてもどちらでもいい。嫌なのだから。

ギターがすこしだけ上手くなった気がする。コードチェンジのときに音が連続しているように聞こえるのだけど、これが決まると楽しい。

たばこを計4本吸った。やめるかやめないかはともかくとして、やめることを強制されるのは避けたい。わたしは喫煙が違法にならないかぎり、吸いたくなったら吸いたいのである。

最近プログラミングをする時間が割と確保できているけど、自分はプログラマーになりたいのかなぁと思う。憧れてはいるけど、それは自分の vocationではない気がする。まあ、自分の仕事が vocationであるかを判断するのは今のところ自分しかいないから、違和感のほうが大きい仕事は避けたほうがいいということにしかならないが。

「本当はなににもなりたくない」

やっとブラウザのアップデートが終わった。

まとまりのない日記だなぁ。ビールが呑みたい。必要なのは変化、それとも日常?そろそろ変化があってもいい気がするな。

わたしはわたしの境界を越えていく。