北上志向

さっき会社の後輩が来て自転車を借りて行った。これで我が家から一時的とはいえ、スポーツ自転車はなくなった。家はすっきりとし、ぼくの心は荒涼としている。

昨日は温泉宿で8時前に目覚め、8時からのんびり朝ごはんを食べた。ホテルの朝ごはんというのはつねに最高である。その後部屋に戻ってたばこを1本吸い、荷物をまとめた。温泉がよかったのか体の痛みもなく、気持ちもいつもより軽い。山奥という立地も自分向きだったのかもしれない。部屋からの眺めをアタマに収め、宿を発った。天気は回復しており、紅葉がところどころ目に訴えてくる。さすがにオール一般道はきついので、高速に乗ることにしていた。

東北中央自動車道(無料区間)と国道13号で南下、その後東根インターから本格的に高速道路となる。山形自動車道から山越えをして東北自動車道に合流、しばらく走って国見SAでお昼休憩とした。ここからは調子よく進み、福島県を縦断した(高速なので街が見れないのが心残りではあるけれど)。那須高原SAで2度目の休憩を取る。あとはもう栃木県内だ。クルマも多くなり、列を組んで走るような感じになった。知っている区間に入り、ぼけっと走っている間に佐野藤岡に着いたので高速を降りた。

結局3時過ぎに家に着いた。さすがに高速は速い。6時間で400キロ近く移動できるのである。青森まで行っても12時間あればなんとかなるだろう(実際はもう少しかかるだろうが)。

なにしに行ったのかはいよいよわからなくなったが、いろいろと収穫はあった。この経験が活きる日もそう遠くはないだろう。また旅に出よう。

おなかとせなかがくっつくぞ

山形は新庄の外れの山の中の温泉宿でお腹をこわしている。たぶんロングドライブで胃腸がよわってしまったのだ。なまぬるいお茶をのみながら若山牧水の歌集を読んでいる。牧水はロマンチストのように紹介されることもあるが、その歌は「覚悟」や「あきらめ」や「絶望」を感じさせる。

今日は4時に起き、20分後にはクルマを出した。カーナビがかなり古いので、スマホでナビをかけるのだが、画面が見えないし、音も聞こえないときがあり、不便な思いをしていた。骨伝導のBluetoothイヤホンをつけてみたら、なかなか良い感じで、少なくとも音を逃すことはなくなった。

あまり道路の下調べをしていなかったので、ナビどおり進んだ。高速道路は避けてある。佐野から栃木へ抜けるときに空荷のトラックにあおられ、死ぬかと思った。雨が降り始め、雨足が強くなった。鹿沼から日光にかけてどしゃ降りで、ぼくは運転席に閉じ込められた。鬼怒川のコンビニで7時ごろ休憩し、トイレを済ませ、たばこを吸った。以後休憩のたびにたばこが手放せなくなった。

国道121号を進み、南会津に入ったところで道の駅たじまで再び休憩。9時ごろ。山はところどころ紅葉しており、紅葉ツアーとなった。助手席にだれかいればなぁと思ったが、誰が朝の4時からオール一般道のドライブに付き合ってくれるだろうか。ひとりでも十分にくるしい。

山を抜けて会津若松の外れを走る。その後のことをあまり覚えていないが、たぶんまた山道に入ったのだろう。また雨が降っていた。いつのまにか県境を越えて山形県に入っており、米沢に向かう手前で121号を外れて、抜け道から川西町へ入った。長井市の市街地手前で道に迷う。ナビの案内する川沿いの抜け道が通行止めで、来た道を戻ったりした。ナビに悪態をついたが、ナビに頼る自分がいけないのだ。12時も過ぎていたのでコンビニに寄り、地図と弁当を買って、地図を見ながら車内でウトウトした。

自転車で同じルートをブルベ的に1日とか2日とかで走るのは無理だろうなという気がした。けっこう山越えが多いし、基本登り基調なので、体力を消耗するだろう。山道では危ないときの逃げ場もない。ブルベトレーニングの下見も兼ねていたが、ぼくの夢は軽く潰えた。

以後大きく迷うことはなく北上した。最上川沿いの道は景色も最高だった。写真を撮っていないのが悔やまれる。同じルートを走ってくださいと思う。一緒に走りましょうと思う。特に自転車の場合、景色は宮沢賢治ふうに言えば、mental sketch modifiedであるから、これはもう多少とも体に痛みを与えてあなたの見える景色を描きだしていただくほかはない。(写真を撮らない言い訳でした)

昨夜5時間くらいしか寝てないせいか、はたまたすでに運転のしすぎなのか常にねむく、ほっぺをたたいたり歌ったりしながらなんとか進み続けた。ちなみに自転車のボトルでJET VALVEというのがあるのたが、これはドライブでもおすすめだ。片手で走りながら水が飲める。助手席に誰かいなくても大丈夫だ。

高速道路は避けていると書いたが、東北中央自動車道(無料区間)は通った。料金ゲートはない。制限速度は70キロだ。高速がタダ?意外である。山形県の配慮なのだろうか。気持ちよく走れる。整備を進めてほしいが、新庄の先でとりあえずは終点。

16時くらいで、宿へ向かっていた。どんどん市街地から離れていくので、食事はどうしようかなと思っていた。素泊まりで予約していたので、近くに食べるところがないとメシ抜きになってしまう。最悪抜いてもいいと思ったが、スーパーとかコンビニに全く行き当たらないので、やはり不安にはなった。ゆるやかに山へ入っていく。道のどん詰まりのところに、こじんまりとした温泉街があった。羽根沢温泉というようだ。

集会場の駐車場がいっぱいだったので、ホテルに確認して奥の空き地に停めた。まず風呂に入る。熱い。どっと汗をかいて、あとで少しさむかった。フロントで朝食をつけてもらいようお願いする。夕飯の話をすると、隣の食堂がやっているとのことで入ってみる。やっている気配がなかったので、店のなかで電話をかけたら、奥にいますよと言われ、準備をしてくれた。カツ丼を食べる。お客はその後ほかにも入ってきた。値段は街中の定食屋と変わらない。おそらく何十年も価格を変えていないと思われる。

駐車場に寄ってたばこを取り、部屋に戻る。昼間買ったグラビア目当ての安っぽい雑誌を読んでいたらなんとなくさむくなり、しばらく寝てしまった。21時過ぎに目が覚め、トイレに行った。

グラビアはまだしも、やや興醒めな雑誌でげんなりした。ぼくも安っぽい男である。袋とじを指でべりべり開けた。自戒も込めて言うが、他者を思慮なく攻撃ないし批難する行為をぼくは好まない。

黙って慎ましく生きたいと思い、黙って慎ましく生きろと自分に言ってみた。あほである。黙って慎ましく生きろと言った自分こそ黙って慎ましく生きるべきだ。これはとんでもない矛盾である。ぼくは単に、自分も含めて意味もなくひとを傷つけるのはよくないねと思っているだけだった。

生きることにびびっているのだろうか。あるいは萎れているのだろうか。ああ、質問される、というか自問しているのだが、あまり自問するとつぶれてしまう。

自分につきまとう自分を殺そうとすれば、自分につきまとわれる自分も殺すことになる。

月明かりで洗車

来る土日はロングドライブでも行こうと思い、山形は新庄の山の中の宿を予約した。ついでにパリの空港近くのホテルを取ろうと画面に食いついていたが、高くてリッチか安くてプアかしか選択肢がなく、ひとまず見送った。帰りの日の便を考えていたのだけれど、街中から電車に乗ってもいいわけだし、向こうに着いてから予約したってかまわないわけだ。

昨夜、旅行4日目の宿をブレストで取ろうと思い、YHのホームページから予約を試みたが、前払金をクレカで払ったところでページが白くなって反応がなくなり、予約が完了したのかどうか定かではない。恐らく決済は完了しているだろうから、念のためYHに直接メールを出してみたが、今のところ返事はない。ちょっと不安である。もう一度くらいメールを出したほうがいいのだろうか。早く返事をもらいたい。が、最悪パリに着いてから電話かなにかで予約してもいいだろう。前回の旅行のときはほとんどの宿を予約せずに飛び込みで泊まっていたのだから、今回の自分は慎重というか不安がっているようでもある。

明日は会社の健康診断がある。たばこをやめたほうがいいんじゃないかとか、酒をやめたほうがいいんじゃないかとか、睡眠が足りないんじゃないかとか、いろいろと余計なことを考えてしまう。びびっていたらいけない。ここで自分を曲げてはいけない。わたしはわたしの健康を背負って行こう。わたしだってわたしの健康を追求しているのだ。検査ではわたしのこだわりなど歯牙にもかけないだろうが。

帰宅して夕飯を食べてからじょうろとプラスチックのケースを持って外に出てクルマを洗った。よく見えないので感触だけでサッサとガラスやボデーを拭いた。ここのところあまり乗っていないような気がする。今のクルマにしてちょうど1年くらい。マツダの最後のロータリー車である。会社の友人が乗っていたもので、冗談で「くださいよ」と言っていたら格安で譲ってもらえた。明日ガソリンを入れて土曜日は早朝に出発しよう。

自宅のWi-Fiがこのごろ絶望的に遅い。実を言うと父親が料金を払っているので、これも自分で払うようにしなくてはと思う。このWi-Fiさえ名義変更ないし駆逐すれば我が家で父親が払っているものは消滅する。わたしは遅いWi-Fiを引き受けてもだえ苦しもう。いや、もっと速いやつにしよう。

仕事は単調かもしれないが、わたしの生活はとらえどころがない。ゆるやかに自殺しているような気になることもある。負けてはいけないと思いつつ、負けるのが人生だとも思う。いや、もう負けていると実感する。もっと負けなくてはだめなのだ。勝っている人間はどこまでも勝ち続けて破滅すればよいと思う。勝とうが負けようが最後は死ぬのだ。負け犬よ死をなめろ。勝者はびくびくしていろ。

孤独だなと思う。孤独という言葉自体があちこちで使われてすでに豊かになりつつある。わたしは孤独以下である。孤独という語は深海を連想させるが、わたしは言うなれば水たまりである。すぐ乾く。しかし雨の後またそこかしこに巣くうのである。

わたしはたぶんラブレターをかきたいのだが、相手のことを考えてラブレターをかくことができないので、いきおい自分のことを考えてかくしかなくなる。わたしが恋愛などしたところで失敗するに決まっているのだが、わたしはただ失敗したときに、「うわあああああ」となったときに、自分のことを考えればいいと思っている。わたしは自分の精神のなかに、ありもしない相手をまるでそこにいるかのように錯覚するが、あくまでそれはわたしのなかのわたしによるショーなのだ。わたしは「相手のことを考えました」などとうそをつきたくないのである。わたしは物語をねつ造するだけだ。わたしはその物語を面白がってくれたらいいなとは思っているが、賛同してくれとまでは言わない。わたしたちは、わたしとして、わたしの集まりとして、向かい合うのではなくわたしの到達点を見つめて、ただ生きていく、歩を進める、にすぎない。わたしは孤独以下である。

 

ひさしぶりに生きていて楽しいと思いました

WordPressの更新が終わらないので、『失われた時を求めて』のペーパーバックをめくりはじめた。背表紙は黄ばんでぼろぼろだが、中のページはわりときれいだ。もう一度くらい最後まで読めそうである。

ひとと話すと自分の立ち位置がわかる。思ったより自分は元気そうだ。自分の人生にひとりでもいいから観客がいるという意識が多少なりともぼくを元気にする。人生は喜劇だと思う。笑えることが大事なのだ。笑って挑み続けたい。求める対象がひとから見てくだらないことでも大いにけっこうである。

なぜか夕方帰宅してから時間ができたので、ギターを触った。コードチェンジが相変わらずぎこちないが、ぽろぽろ音が鳴るだけでも心のなぐさみには充分である。豊かに生きるのに必要なのはカネではなく、心の余白である。

毎晩2時間勉強時間を確保することによって、ぼくはいかなる日でも個人的使命を果たすことができる(かもしれない)。仮に残業が長引いたとしても、家で2時間机に向かえばよいのである。24時間働いてしまえばその2時間は食いつぶされてしまうが、仮にそんなことになったら仕事をやめればいい。

WordPressの管理画面を開いたついでにパソコンで記事を書いているが、最近キーボードに萌えなくなってきた。スマホか手書きが好きだ。キーボードは感触が硬い。

「ひさしぶりに生きていて楽しいと思いました」と書いた。どうかしている。楽しいわけがない。だが短い時間でもそう思ったのだろう。たまには楽しいと思ったほうがいい。たまには昼から夢想したほうがいい。なにも叶わないと思っていても、ひとつかふたつくらいはあきらめていたことが芽を吹くかもしれない。

だめお

ふとケータイを見るとLe MansのYHからメールが来ていた。昨夜つたないフランス語で予約をお願いするメールを出した返事がきたのだ。わたしはラブレターの返事をもらったときのようなうれしさを感じた。Nous nous avons reserve une chambreと書いてあった。これでLe Mansで路頭に迷うことはないだろう。

ドラッグストアで買い出しをしていて、ついお酒コーナーに足が向いた。おいしそうなシングルモルト500mlが2,000円で売っていた。わたしは米を買うのをやめて酒を買った。おろかである。だが安い酒をたくさん呑むよりうまい酒をちょっぴり呑んだほうがよいと思っている。チンするごはんで夕飯を済ませ、ショットグラスに一杯だけ注いで呑んだ。自宅でメーカーズマークより高価な酒は呑んだことがない。

コーヒー豆も購買した。豆はチョイスがなくなりつつあった。ひとりサイズのフィルターも姿を消していた。孤独なコーヒー呑みは家呑みすらできなくなってしまうのだろうか。

そんなわけでアタマがとろんとしている。しかし言い訳はできない。わたしにはわたしのhomeworkがある。

健康だねと言われて

本棚の写真をアップしようとしたら通信状況のせいか挫折していた。

読書は健康によいというニュース、AIがそのように結論したらしいが、そのニュースが流れ、会社で「荒木くんは健康だね」と何度か言われた。

わたしはこのごろ睡眠時間を削って本を読んでいるが、べつにそれでもかまわないということだろうか。いや、わたしはわたし自身が健康であるとはあまり思っていない。本を読んでいるから健康だなんてまっぴらである。

空き時間に狂ったように自転車や自転車のアクセサリー類のカタログをむさぼっている。大幅に納期が遅れているとはいえ、1台オーダーで頼んでいる身分である。浮気はいけないと思うのだが、サイクリング車が欲しくなってしまう。ばかである。

スマホをやめようかなと思っている。基本料金が高いこともあるが、スマホだとついついネットやSNSで他人の動向を気にしてしまうのだ。そんなものを気にする必要は全くない。わたしはわたしの好きなひとからのいくつかのメッセージを胸にちいさくたたんでしまっでおけばそれで良いような気がしている。こうしてさくさくと日記が書けるのも果たして良いことなのかはわからない。

おそらく、スマホでなくてもかまわないのだが、わたしはわたしの大事なものを捨てたいのだと思う。だからわたしは先日自転車を1台手放した。もう1台持っているが、これを手放すとスポーツ車がなくなってしまうので、情けなくも今手放すことを躊躇している。だが手放してしまってもよいのだと思う。わたしは自転車を手放してしまったら死ぬんじゃないかと思っているほどだが、べつに死にはしないだろうと考えを修正している。もちろん、手放さなければ手放したあとの気持ちはわからない。

身軽に生きたい。それはアタマについてもだ。しかしアタマを軽くするのはいちばんむずかしいのである。

ギターを弾く暇もなく

土曜日は4時に起床し、15分後には夜も暗いなか自転車にまたがった。横浜は菊名を目指す。いつも南下するときのように利根大堰で利根川を渡り、武蔵水路沿いに進んだ。その後荒川サイクリングロードにのっかる。朝日がまぶしかった。入間川との合流地点では迷わず済んだが、その後治水橋を過ぎて東側を走っていたら河川敷の道路が消失し、道に少し迷った。

結局一般道を走って国道463の羽根倉橋を渡って朝霞市に入り、あれこれ迷った挙句にやっと環八に入れた。環八は走りやすいとはお世話にも言えないが、天気のよい街中を駆けてゆくのはそれなりに気持ちよかった。時折渋滞してあまりペースは弾まなかった。

多摩川も近くなり、瀬田の交差点を曲がらずスルーしたあと、野毛公園のわきを通って多摩川に出て、田園調布エリアを少しばかりなめてから丸子橋を渡った。

綱島街道を一生懸命漕いだが、疲れで足がきしんだ。なんとか菊名駅に着いたのが11時20分。その後ほどなくして目的地にたどり着き、わたしはそこで乗ってきたピストバイクをひとにgiveした。

お茶をいただいて息を吹き返したわたしは、ヘルメットを片手に持って駅に戻り、市ヶ谷へ向かった。

なんとか10分程度の遅刻で大学の英文学会に出席し、懇親会を含めると20時まで大学に滞在した。

なんとか自宅に戻ってきたのは23時も過ぎたころで、シャワーを浴びて床についた。

本日は、サイクリングクラブの走行会で60キロ程度山を中心に走り込み、走り終えてから自転車店で座ったまま時間が過ぎた。

時間がないなどと思うが自分のせいである。愚かである。わたしはギターを弾くのをあきらめて本を読んだ。この日記にも意味があるのかはわからない。

時間が過ぎていく。人間は有意義病である。

What is life?

さっきまで夏目漱石の『こころ』を読んでいた。とんでもない小説でぼくは何度も驚愕した。感想を述べるにも圧倒されている。今日読んでも新鮮な感じがするのは不思議だ。

明日は自分の自転車をひとにあげるので横浜まで乗っていく予定だ。午後は大学で学会に参加する予定なので、早朝出ていくことになるだろう。なぜこうも予定を詰め込んでしまうのだろうか。答えは出ない。答えがないとは言わない。

職場に座っているのはつらいが、夜には本が読めると思ってがまんしている。いつか自転車で長旅ができると思ってがまんしている。空き時間にネットで自転車のバッグなどをぼんやり眺めている。

帰ってきてから月曜に注目したスーツを取りに行き、その後中華料理屋で夕飯を食べた。いつもならビールを呑むが、ねむくなるのを恐れてコーラにした。いつもならごはんをおかわりし、ぼんやりテレビを見てから帰るのだが、時間がないからとさっさと食べて帰ってきてしまった。

気持ちが焦っているなと思い、ウイスキーをショットで一杯だけ呑んで、それから明日乗る自転車を外で整備した。それから『こころ』を読み、最後まで読んだ。今こうしてあてもなく日記を書いている。このブログなど風前の灯火であろう。

作中でKはなぜ死んだのだろう。ぴたりとくる説明はないだろう。覚悟と言った彼は何を覚悟したのだろうか。死ぬことを覚悟したのだろうか。覚悟することを覚悟したのだろうか。

ぼくはぼんやりしている。もちろん自殺する必要もなければひとに隠し事をする必要もない。ぼくは幸せというものに思いを馳せる。幸せの字に辛さが含まれているという論を今思い出し、幸せはもはや辛いものなのではないかとすら思う。と同時にぼくは幸せを追求せずに不幸不幸とつぶやくのが嫌いでもある。なんだろう、ぼくは板についた幸せと板についた不幸を好んでいる。うわっつらの幸せとうわっつらの不幸は嫌いである。特に自分がうわっつらの不幸を身につけているとき、ぼくは自分をきつく軽蔑する。

そんなわけで。自分が自分に与える罰とはどんなものだろうか。受難の際のきらめきをぼくは大事にしたいと思っている。

おれは一生モテない

20時半だ。あと2時間経っても22時半だ。それなりに寝られるだろう。ついさっき牛丼屋で夕飯も食べた。

ネクタイを求めて100円ショップに行ったが、ほとんど種類がなく、1本しか買えなかった。行くたびに種類が減っていく。大事に使えということだろうか。あとウイスキー用のショットグラスを買った。

牛皿定食を食べながら、おれは一生モテないのではないのだろうかと思った。たとえパリで婚活しても誰とも一緒になれないかもしれない。それならそれでいいやと思った。いない人など願ってもしょうがない。連れがいないのならひとり平然と生きるのみだ。

今年の冬は家のなかにテントでもはろうと思った。冬のアパートは身にしみる寒さだ。去年は年末までアルミの毛布をかぶって過ごしたあと、暖房をつけるようにした。今年はテントにこもって冬を越したいと思う。冬は精神的に豊かにならなければだめだ。

まだ秋だ。フランスの地図でも眺めて夢想するのがよいだろう。現実が甘くなる瞬間もいつか来るだろう。

しずかな夜

国道というかバイパス近くのアパートに住んでいるのだが、こんなにもしずかだったろうかと思う。しずけさは貴重だ。なかなか手に入らないものである。

「いずれぼくは死ぬ。だから焦って死ぬことはない。」

「いずれはぼくは仕事をやめる。だから焦ってやめることはない。」

もちろん焦ってもいいのだと思う。ぼくは軽く焦っている。腰を落ち着けて生活を継続することが逆にぼくを不安にさせる。

書くことは焦りなのかもしれない。

夕方から頭痛がしていた。靴屋に一足修理に出して戻ってくるといよいよひどく、ベッドにもぐりこんだ。目がさめると頭痛はおさまっていた。夕飯を食べるのはやめてお茶だけ飲んだ。台所には朝食で使った洗い物がそのままだ。たしか朝はお腹がいたく、片づけをせずに出かけたのだ。

そのまま寝てしまったほうがよかったのだろうが、机に向かうことにした。ぼくは思った。会社に行き、ほどほどに睡眠をとり、三食欠かさず食べる生活と、会社に行き、夜は書きものをし、たまに食事が飛ぶ生活と、どちらがより幸福なのだろうか。極端な話、健康でなにもしない生活と、多少健康を損ねても自分で決めたことをやりぬく生活と、どちらがイケてるのだろうか。

たたかう人間にもたたかわない人間にも天からの報酬はないと思っている。

それでも、たたかう人間にしか見ることのできない景色があると思っている。ただそう思っている。