小春日和

目の前にパソコンがあるのに、ブラウザのアップデートがしばらくかかりそうなので、スマホから書く。

今日はここのところ一番のマイルドな天候で、全然寒くない。窓を開けているくらいである。ちょろちょろと雨が降っている。

相変わらず仕事は嫌いだが、日によって気分はまちまちだ。今日は比較的よい気がする。天気のせいかな。嫌なことを続ける体力がついたのかもしれない。そんな体力に意味があるのかは知らないが、わたしは無意味なことが嫌いではない。嫌なことは、続けてもやめてもどちらでもいい。嫌なのだから。

ギターがすこしだけ上手くなった気がする。コードチェンジのときに音が連続しているように聞こえるのだけど、これが決まると楽しい。

たばこを計4本吸った。やめるかやめないかはともかくとして、やめることを強制されるのは避けたい。わたしは喫煙が違法にならないかぎり、吸いたくなったら吸いたいのである。

最近プログラミングをする時間が割と確保できているけど、自分はプログラマーになりたいのかなぁと思う。憧れてはいるけど、それは自分の vocationではない気がする。まあ、自分の仕事が vocationであるかを判断するのは今のところ自分しかいないから、違和感のほうが大きい仕事は避けたほうがいいということにしかならないが。

「本当はなににもなりたくない」

やっとブラウザのアップデートが終わった。

まとまりのない日記だなぁ。ビールが呑みたい。必要なのは変化、それとも日常?そろそろ変化があってもいい気がするな。

わたしはわたしの境界を越えていく。

Un Unhappy World

灰色な気分でこの記事を書く。特になにかあったわけではないけれど、心の天気というやつだ。

事務所にいると疲れるので、あまり行きたくないのだが、それはぜいたくというやつなのかもしれない。特にプログラミングをする場合、事務所に行くこと自体にあまり意味がない気がする。

今日は帰宅後用事がなかったので、いつもどおりギターを弾いてから、牛丼屋で夕飯を食べた。家で食べようと思っていたけれど、台所に洗い物が残っており、家飯はさぼろうと思った。

幸福度の上下には、なにかをする・しないも関係するけれど、受け手の心理的態度も重要だと思っている。幸せを拒否するひとが幸せになれるのかは疑問だ。わたしは幸せを拒否するのも好きではあるけれど。

毎日死にたいと思っていてはいけないとも思うけれど、死にたいと思うこと自体は、そう思いたければ思ってもいいのではないだろうか。「死にたいと思ってはいけない」と思うこと自体がストレスなのだ。頭のなかくらい好きにさせてほしい。

「ひどくつまらないのはわたしのせいなのだろうか」

「世界に変わってほしいとは思わないけど、自分くらいは変わりたい」

I want…

「あぁ世の中。嫌いな世の中。離れられない世の中。放っておきたい世の中。」

皿洗い。お風呂。花瓶の水を替える。爪を切る。なんだなんだなんだ。生きたくない。生きたくない。でもわたしがなにを考えようと、わたしの精神はわたしの生命の飾りでしかない。わたしはわたしの精神を突き放す。

「おまえには地獄がお似合いさ!」

Business Trip to Osaka

大阪行きの新幹線に乗っている。とあるカスタマーの事務所で作業があり、出張要員に選ばれたというわけだ。10時20分。眠い。昨夜は勉強をまったくせずに、中華料理屋でビールを呑んで夕飯を食べ、風呂に入って寝た。

5時には起きたので6時間は寝たことになる。たぶんこのごろ5時間くらいしか寝ていない。2時間の勉強タイムが深夜帯に食い込んでいる。しかも帰宅してすぐ勉強ならまあいいのだが、20時までに帰れたらギターを弾いているので、勉強タイムの開始が22時とかになり、結局寝るのは1時ごろになってしまうのだ。

ビージーズの「若葉のころ」を弾き始め、練習中の曲が7曲に増えた。これ以上増やすと手に負えないので、まずはこの7曲をそれなりに弾けるようにしたい。毎日ギターをやるのは無理ゲーだと思っていたが、意外と毎日でもいける。会社の昼休みにもギタレレを鳴らしている。ぼくは一度挫折してギターをやめているので、今度こそはという思いがあるのかもしれない。まあ、一時的なマイブームである可能性もあるけれど。飽きっぽい性格なので。

今ほしいものは12弦ギターで、4月になって新入社員が入ってきたら買おうと思っている。既に自宅にはアコギが2本とギタレレ1本があるのだが、もう1本なぜかほしくなってしまう。自転車4台持っていた時期もあるので、ギター3本はぎりぎりリミットかなという気がしている。自分への言い訳であるが。なぜ12弦なのかというと、ぼくの好きなミュージシャンであるRenaudが、若いときよく12弦で弾いていて、それがかっこいいというただそれだけの理由である。ヒーローのマネをするのはぼくの幼少期からのクセだ。大して大人になっていない。

そろそろ京都。眠気が増す。さっきまでRebuildというポッドキャストをきいていた。テック関係の番組で、最近よくきいている。なにかこう、人生、それもキャリアを中心軸にとらえたそれは、自己実現のプロセスというよりむしろ、権力構造のなかでの歯車としての個人のささやかな抵抗なのではないかという気がしてくる。夢や目標を追いかけることは、追いかけたくて追いかけているのか、追いかけさせられているのか、一度落ちついて考えてもいいのかもしれない。考えなくてもいいといえばいいのだけれど。

ぼくについていえば、長期的な夢や目標は持たなくなってしばらく経つ。就職してからそういうものは捨てた。何者かになることより、今日いかに個人としてシステムに反抗するかが重要だと思っている。具体的にはその日やりたいと思ったことをやる。やりたいことがなければ家事を片付ける。疲れていたら休む。そんな感じだ。

「今日という日でも十分なんじゃないの」と思っているし、なるべくそう思えるようにしている。明日に宿題を持ち越さないほうがいいし、あんまりやりたくなくて、やらなくてもいいことはスキップしてかまわないと思っている。

あまり流されないこと。そして自分にはまりすぎないこと。本能を行動に移してみること。自分がドロドロしていたら、固まるまで待ってみること。

I’m shutting down. Thank you for living today.

汝再び家に帰れず

記事タイトルはトマス・ウルフの小説からとった。

昨夜からのことを書こう。昼過ぎまで川崎の子ども会の行事の手伝いをしていたぼくは、その後友人と飲んでおり、21時過ぎに足利に帰るため電車に乗った。北千住で館林行の電車に乗り、館林駅から太田方面の最終電車が23時31分に出る。

12時近くなって最寄り駅に着いた。そこでぼくはとんでもないことに気づいた。ズボンのベルト留めの輪っかにカラビナでくくりつけておいた自宅の鍵がカラビナごとなくなっていたのだ。カバンやポケットを漁ってみるが、出てくる気配はない。飲み屋とカラオケ店にも連絡するが、情報は上がってこない。鉄道会社の電話窓口は全てクローズしたようだ。万事休す。

ぼくは自宅の前でもう一度鍵を探したが、やはり出てこない。そのまま歩いてすぐのネットカフェに避難した。泣きたくなった。つかれているのかたばこ1本まともに吸えない。歯磨きだけしてリクライニングシートに横たわり、バンダナを顔にかけて、眠るよう努めた。意外と夜中も物音が騒がしく、夜のネカフェは修羅場だとは思ったが、電源、インターネット、飲み物と生活必需品はおおむねそろっているように感じる。

8時前に起きた。少し身の回りを片付ける。エアコンのせいか喉が乾いて痛む。そういえばここのネカフェはモーニングが無料である。これまで食べたことはなかったが、今日は非常事態である。トースト2枚を頂いた。パソコンの画面で現在の料金を見ると、深夜パックとなっており、いつもぼくがここで支払っている料金より安い値段が表示されている。まぁ、ぼくはここで夕飯を食べることが多いので、滞在費より食事代のほうがむしろ高くつくからなのだが。安い宿を求めてネカフェを利用するひとが多い理由もわかる気がする。

現在8時45分になるところ。鍵を探すより、壊して交換したほうが早そうなので、アパートの管理会社に9時になったら連絡することとする。今日は月曜祝日なので、業者がやっているかが問題だが、それは連絡してから考えよう。

「鍵のない生活はきみを自由にするか」

玄関に花を飾ろう

夜も更けた。仕事が長引いていたのでドミノ式に全てが遅れる。平日だろうが遠慮はしない。

玄関の花がエキゾチックな香りを放っている。いいことだ。これまで家に緑はまったくなかった。一人暮らしだと基本殺風景な部屋のなかで暮らすことになる。ひとに花をおくることはあっても、自分のために花を買うことはなかなかない。ぼくもこれまであまり花に興味はなく、今でもあるのかあやしいが、ともかくもこの殺伐とした部屋に花が必要だと思ったらしい。

今日は(たばこを)一服もしていない。また突如禁煙daysとなっているようだ。なにか目的があるわけではないが、たばこなしで過ごして体をすっきりさせようという目論見らしい。目論見に興味はないが、本能には従おう。吸う気がないのなら吸わないでおこう。

相変わらず毎日ギターを弾いている。明日も早起きしてネカフェのカラオケルームで弾こうと思っている。相変わらずへたっぴだし、ひとつの曲が満足に弾けないうちに次の曲へ手を出すので救いようがないが、まあ好きにやっている。いつも聴いていた曲を自分で弾けるとなると気持ちが盛り上がってくる。しばらく集中して行わないと上達しない面もあると思うので、飽きるまで毎日弾いていたい。

すごくねむい。今日は仕事がつらかった。仕事に一日のメインを明け渡してしまった感じだ(それが普通なのかな?)。どうにも勉強する気が起きない。ビールでものんで寝てしまいたい。

火曜日だというのにこのつかれ具合はなんだろう。つかれについて書く自分はあまり好きではない。つかれているのなら表に出てくる必要はない。今日はキーボードの打ち間違いがひどい。明日への遺言。なにかありますか?

「愛とはだれからも見放されることです」

Really?

なにか楽しいこと考えて

もし、楽しいことを考えて体が浮くのなら、陰湿なことを考えたら体が沈むだろう。ぼくは飛べない。

毎日2時間勉強することにしているけど、最近はお酒を呑んだり映画を見たりしていて、実質勉強時間が食いつぶされている気がする。継続は困難なり。ただ夜更かしする習慣だけが続いている。前よりすくない睡眠時間でもやっていけることはわかったけど、いいのかこれで、という気もする。

意味のあることに時間を割きたいと思っているが、そもそも意味のあることってなんだ。勉強することに意味はあるけど、だらだらすることに意味はない、みたいな、そんな感じなのだろうか。近ごろあまり余裕がないので、酒もたばこもやめられないし、音楽も映画もやめられない。どうもぼくは空き時間は本を読むか詩を書くかしている状態を理想と思っているようだが、そのとおりにはいかないこともしばしばだ。一体なにをするのがいいんだろうね。

電子たばこをふかしている。とにかく部屋がさむく、なにかしていないととても耐えられない。酒がほしくなるのはさむいせいもあるだろう。なんでもかんでもさむさのせいにするつもりはないけれど。なにかをする、しないはたぶん情熱の問題だ。

今日いちにちに正解はない。そんなことは知っている。間違ったってかまわない。でも、できれば「今日を過ごしてよかったかもしれないな」と思いたい。「今日がなんだっていうんだよ」とはあまり思いたくない。実際は「今日がなんだっていうんだよ。おれにはなにもないよ」と思っているわけだけれど。なにかを求めてあがいているのかもしれない。このあがきに意味はあるか。求めているものに近づけているのだろうか。なにを求めているのかも、正直、わからない。わからないのならわからないままでもいい。わからないという自分の感覚さえ覚えておけば。

なにを悩んでいるのだろうか。そもそもぼくは悩んでいるのだろうか。悩んでいるふりをしているのだろうか。生きていてもしょうがないと思う。この「生きていても」の「生きる」の範囲はひどく狭いものと推測される。この「生きていても」の対極に死を持ち出すのはやりすぎだ。死は生がわかっている人間のためにあるのだ。ぼくは生きるということがわかっていない。食わず嫌いという言葉があるのなら、ぼくは生きず嫌いである。

ぼくはぼくであることをやめたいけれど、この世でぼくはぼくでしかない。ぼくはぼくから離れられない。生きることは死ぬよりつらいなどと言えば、言い過ぎだろうか。きっと言い過ぎだろう。それでもぼくは、ゴールの見えている人間はゴールの見えていない人間よりも不安にならずに済むだろうと思ってしまう。

自分のことを勝手に決められるのがいやだから、これまで好き勝手に生きてきた。今もそうだろう。そしてむなしい気持ちになっている気持ちになっている。充実ってなんだ?満たされるってなんだ?満たされなきゃいけないものか?

朝起きたら、自分が死んでいた、とする。どんな気持ち?あぁ、もうコーヒーは呑めないんだなぁ。仕事に行かなくていいんだなぁ。昼休みにギターが弾けないなぁ。ぼくが死んだら、ぼくのことを思い浮かべてくれるひとのなかのぼくが死ぬんだなぁ。誰もぼくに会えなくなってしまう。それもいいのかなぁ。わからないわからないわからない。

「生きたくて生きてるわけじゃないけど、死にたくて死ぬわけじゃないんだよ。おれはおれの生死について、なんの決定権もないよ。生きることも死ぬこともあきらめてるよ。もう、ほっといてくれよ。」

On the edge

佐野のファミレスJにいる。時刻はまもなく21時。いちにちは短い。

昨日は疲れていたので、自宅でお酒を呑んでだらけたあと、そのまま寝てしまった。

今日の昼間の体調はまずまずだったが、ここへきて頭が重い。風邪やインフルエンザが流行しており、自分がかからないともかぎらない。冬は生きるだけでも大変だ。

なぜ佐野にいるのだろう。なにかいいものを食べて体力をつけようと思ったのだろう。ねむい。明日仕事か。信じられない。信じたくない。明日の自分が別人になっていたら信じよう。

生きるってなんだろう。とこのように思うときは大して生きる気がないときだ。いつから人類は生きるということを特別視するようになったのだろうか。今世。来世。前世。生きるも生きないも、究極的には同一なのだ。有るか無いかは、ともに有る、そしてともに無い。生きるということはただ、生きているふりをしているということなのだ。生まれるふり。死ぬふり。本当はぼくらはずっと生きている。本当はぼくらはずっと死んでいる。

「ねぇ、見えない愛ってあるの?それってどんな感じ?」

呑むべきか呑まぬべきか、読むべきか読まぬべきか、愛すべきか愛さぬべきか。

「きみはべきで生きられるの?きみは生きるべきなの?」

Laissez moi tranquille. ぼくは考えているふりをしているだけ。生きがい?たまたま生き続けているだけさ。欲望?あるけどない。ただ、ただ、なるべく全力を尽くすだけ。あなたが振り向くかどうかとか、関係ない。振り向きたかったら振り向いたらいい。

偶然に賭けている、かもしれない。だから平気で回り道を通ろう。うっかり幸運に遭遇するかもしれない。なにを探しているのだろう。やっぱり、感動、なのかな。

Yes, I’m going to Fukushima

ちょうど宇都宮駅を発つところだ。天気は晴れ。ふつうに寒い。これから二本松に行き、それから福島市を目指す。徒歩旅行の最終ステージである。

今回で9回目の遠征となるのだろうか。前回到達点まで電車で行き、歩いてたどり着けるところまで行ってまた電車で戻るというスタイルでやってきた。徒歩は完全にモバイルな移動手段だからこういうことが可能だ。遠くに来れば来るほどに、電車の移動時間と交通費が増える。足利からだと福島が限界な気がする。在来線で片道約4時間だ。往復で8時間。現地での活動は6時間程度となる。

連泊すればよいのではという意見もありそうだが、わたしは足に軽い持病があり、歩くのは丸一日が限界だ。その後しばらく休む必要がある。冬にこんなことをしているのは、足の皮膚が比較的乾燥しており、マメができにくいからだ。また、往復の交通費を考えても、日帰りのほうが泊まるより安いということもある。日帰りは慌しいと感じることもあるが、日常をブレイクするのに、この日帰りウォークはちょうどいい。

朝日が車内を照らす。宇都宮駅以北の駅名もなんとなく覚えてしまった。寒いなか人家の少ない道路を歩くのは、わるくないと思っている。とくべつ楽しいわけではないけれど、落ち着くのだ。本当のことがよく見える気がする。逆に言えばつまらないことは洗い流される。シンプル。生きて帰ること。そのなかで自分の行きたい場所へ行くこと。景色をながめること。好きな人の顔を思い浮かべること。近いうちにやってみたいことを醸造すること。

なんかもう旅の電車に乗っているだけで十分な気がしてくる。朝はいいな。普段なら皿洗いでもしているところだろう。朝日の祝福。ありがと。

歩く。リズムを刻む。同時にぼくはぶちのめされていく。勝つか負けるかでいえばぼくは負ける。歩けなくなる。歩けなくなったとき、なお心洗われた気持ちであるならば、それはつまり心が洗われたということなのだ。

自己肯定感の低下

なんじゃそりゃ、という感じだ。もう電気の走らないカーペットの上にすわり、正座してひざかけをかけ、ノートパソコンをひらく。

昨日父親の契約していたWi-Fiが切れた、というより父親が解約した。わたしは、自宅ではたぶんここ3年くらいそのWi-Fiに頼ってほそぼそとネットをしていた。料金は父親が払っていたので、わたしはただで使わせてもらっていたのだが、ちょうど更新の時期となり、父がわたしの通信料を肩代わりする理由も特にないので、父は電話口でさんざん待たされた挙句に契約を解除した。これまでありがとうございました。

わたしはルータに電波が来なくなったことを見届け、その日の夕方、瞬発的に伊勢崎のスマーク(ショッピングモール)に行き、Wi-Fiを契約して新しいルータを持ち帰ってきた。毎月4千円強の出費となる。ネットなしの生活も悪くはないと思うが、わたしはネットが好きなので、甘んじて受け入れることにする。クリエイティブな作業に充てられればなおよい。

自由とはつまり未決定のことを指すのだろうか。わたしの心はいよいよ未拘束である。たぶんなにを考えてもいいのだと思う。茫漠としている。わたしは折にふれてたばこを吸い、そのたびに自分などクズだと思う。たぶんそんなことはない。が、いっそのことクズになってしまえと思う。

「なにをしたらいいのかわからない」

そうだよなぁと思う。この疑問は苦しい。わたしはさっきウイスキーを呑んだが、この疑問に答えることはできない。玄関の花が少しずつ背を曲げていく。毎週新しいお花を飾ったらいいんじゃないかと思う。お客が来るかどうかは関係ない。自分が花がほしいと思ったら花を生けてみるのだ。

わたしは思うのだが、「なにをしたらいいのかわからない」頭にはしばらく休んでもらえばいい。わたしはそう考えながら、しかしなにかしらを日々成している。気にすることはない。たばこの本数も、酒を呑む回数も、いずれ収まるだろう。生にしがみつく必要はないが、死を熱望する必要もない。わたしは近頃、自分が死にたいと思ったとき、「あ、これは自分の十八番のネタだ」と思うようになった。自殺願望、それはわたしの脳内アートなのだ。死そのものは、わたしの手には負えないものだ。必要なときに向こうから来てもらえればそれでいい。わたしがわざわざ呼び寄せる必要はない。ま、密かに待ってはいるけれど。

実らぬ恋、と書いたところでこれまた自分のネタなのではないかという思いに至る。すべての恋愛は深刻なジョークなのだろうか。わたしはそろそろ恋愛3.0に進みたい。わたしに恋愛は無理だ。わたしは恋愛にあこがれているにすぎない。決してたどり着けない恋。ならばわたしは行かねばならない。「なにをしたらいいのかわからない」

やっぱり寒いね。酒を呑んでもあたたまらない。暖房をつければ解決するのだろうか。大体解決するだろう。わたしはしかし、自分で自分に暖房をつけることを禁じているのだ。ばかである。世の中に対してすねているのかもしれない。「誰もぼくのことを気にかけてくれないなら、ぼくはぼくの部屋で凍えてやろう。ぼくの心の寒さは、おまえたちにはわかりはしない。ええい、ほうっておいてくれ。ぼくはあたためる価値のない人間だ。死にたくはないさ。しかしきみこそ、冬の寒さを知らずに死ぬつもりかい?いやいや、大事なのは温度計で見える寒さじゃない。氷の張った心の湖の深淵さ。きみはそれをのぞきこんだことがあるのか。」

「ぼくは、好きじゃない、なにも」

「ぼくは、だれにも、見放される」

風が鎧戸をたたく。わたしはなにを肯定したらいいのかわからない。わたしはなにを頼ればいいのだろう。わたしは、よくこれまで生きてきた。今もよく生きている。これからも、よく生きていく、かもしれない。わたしの価値はわたしではないひとかわたしではないものに決めてもらいたい。

わたしは、あなたに会えそうもないので、あなたのことを考えながら眠りにつきます。

たったひとりでもいきていく

「努力した結果の成功体験なんてない。努力がそのまま成功体験なんじゃないの?」

電気カーペットがこわれてしまった。こわれたカーペットのうえでパソコンを開く。思いのほか外は寒さがゆるみ、部屋のなかはまあまあ過ごせる感じだ。春は遠くない、かもしれない。

今夜は会社の新年会があり、定時になってすぐ帰った。ギターの直前練習をしようと思ったのもつかのま、たいへんな腹痛に襲われ、トイレにかけこんだ。お得意の下痢である。お腹のなかは見事に洗浄された。3分ほど横たわる。会社での集合時間が近づく。ギターを背負って自転車に乗り、夕闇のなか事務所へ戻った。すでにバス利用者は全員集合済み。点呼をとり、会場へ向かった。

おとなしい夜景を見ながらの会食。ぼくはお腹の調子を案じ、演奏の前には飲むまいと決めた。わりとすぐ自分の番が来てしまった。本当は12番まである曲なのだけれど、6番まで歌って途中で歌詞を忘れて止まってしまい、退場となった。あっけなかった。まるで自転車のレースのようだ。ぼくは手を抜いた覚えはないのだが。観客心理からすればフレンチポップも指弾きのギターもあまり面白くなかったのかもしれない。ぼくの自己満足だったのだろうか(満足しているわけではないけれど)。

その後、ウイスキーをストレートで1杯だけ吞んだ。昨年同じ会にてウイスキーを飲み過ぎてぐでんぐでんに酔ったことを思い出し、無理に飲むことは控えた。コップは空にしたほうが気分がいいが、全部飲む必要はない。体調がなにより優先である。今日は1杯で十分だった。

「もうちょっと練習をして」という声もあり、それはそのとおりではあるが、「一生懸命やってこれなんだよ」という感じも自分ではしている。要するに向き不向きあるのだ。自分では向き不向きと上手下手はどうでもいいと思っていて、好き嫌いと続くか続かないかのほうが重要だと思っている。

たったひとりでもいきていく。たったひとりでもギターを弾く。たぶん、たったひとりでも○○する、というのが大事なんじゃないかと思う。孤独の友は空白だが、空白のなにもなさになにもない充実を感じられるかどうか。ぼくは愛とは想像力だと思っている。

人並へのぼんやりとしたあこがれ。人並という考え方も、それへのあこがれも、要らないと思われる。まず自分の人生を見ろよと思う。なにか大きなことを成し遂げなければならないということはない。奇跡とは奇跡でない。きっと奇跡を受け入れる覚悟を決めるべきなのだ。よろこんでみようと思うひとのもとによろこびは訪れるのではないだろうか。あくまで自分の目線でかまわない。かまわないが、きっかけはなんであれ、自分の目線を棄却するときに、この世の輝きの片鱗を目にするのではないのだろうかと、近ごろは考えている。