史上最長のGW日記#6

こんなにも暇を持て余しているのに日記をつけるのが困難になってきた。昨日のことどもを記す。

何時に起きたのか覚えていないが、11時ごろだったのだろうか。お昼を食べたのかも思い出せないが、スマホに保存してあった乗換案内を見る限り、12時の電車に乗って渋谷に向かったようだ。

14時前に渋谷に着いた。モンベルショップに行く。自転車用のバッグが目当てだ。フロントバッグとフレームバッグを購入。ある程度の長距離走を見越してのことだ。個人的には2021年のLondon Edinburgh Londonを目指している。直近では土曜日に千葉の東金市までサイクリングに行く予定なので、バッグがついていたほうが便利だと思った。バイクパッキングという言葉が出てきてからしばらく経つが、ロードレーサーにキャリアなしで積める荷物の量には限界がある。今のところは気休め程度の積載だ。

買い物を終え、昼飯でも食べようかなと思って歩き出すと、渋谷を外れてしまった。地図を見ると代々木公園へ向かっているようで、それならコンビニで買って公園で食べようという気になった。

代々木公園はどこが入口なのかよくわからない。代々木公園駅を過ぎてしばらくすると入口らしい箇所を発見。そのまま入る。ベンチを探してしばらくうろつく。結局売店の向かいのベンチに落ち着いた。園内サイクリングロードがすぐ目の前で、老若男女(お国もあちこち?)が自転車で通りすぎていく。陽当りは良好で、若葉が透けて見える。

iPadで読書をする。いい季節だ。そして連休っぽい(これはどうでもいいけど)。代々木公園で勉強するのははかどるかもしれない。

16時もまわるころ帰路についた。帰宅は19時30分とか、そのくらいだ。ギターを弾いてからスパゲティをゆでる。

夜詩を書いていたら気持ち悪くなり、0時過ぎに寝た。

史上最長のGW日記#5

ネカフェにいる。夕飯をこそこそ食べようと思ってきてしまった。

今日は14時まで寝ていたのだった。なんとまあ17時間近くふとんにくるまっていたことになる。

15時ごろスパゲティを食べ、紅茶を飲み、その後歯を磨いてひげをそった。前日分の日記を書き、そのままギターをとりあれこれと弾いていたら18時を回った。ネットで楽譜を検索しだすときりがない。3曲程度に集中しよう。3日前に買ったクラシックギターは非常によい。ぴったりくる。死ぬまで手放したくない。実のところぼくよりこの世にいる年数はこのギターのほうが長い。先輩である。

自宅に散らばっていたルーズリーフの原稿をまとめていくつか詩を書くといい時間になった。夕飯を食べるお店が今日やっているのか定かではないが、あまり人に会いたい気分でもなかったのでネカフェに避難しようと思った。

そんなわけで今はネカフェで、持参したiPadでこの日記を書いている。この後はルターの訳した旧約聖書を読んで帰って寝る予定だ。明日の予定はない。

史上最長のGW日記#4

昨夜書くはずの日記が今日になってしまった。昼からサケを呑んでいたために、夕方帰ってきたらすぐ寝てしまったのだった。

というわけで昨日のことども。8時前に父親宅で目覚める。起きたら朝食が用意されていた。スパゲティを食べる。お茶を飲む。コーヒーを飲む。歯を磨きひげをそる。シャワーを浴びる。

窓の外を見ながらギターを弾く。ギターの型番をネットで検索すると、かなり古いモデルのようだ。1970年ごろのもので、当時の定価が2万円とのこと。クラシックギター自体もクラシックというわけだ。

窓の外を見ながらiPadで本を読む。昼になる。支度をする。父親とともに部屋を出る。父親と別れる。ぼくは川崎へ。

友達との待ち合わせは14時だが、13時には川崎に着いた。本屋でも行こうかとショッピングモールへ向かう。ギター(のケース)がかなり重く、かさばる。やっとの思いで本屋に入り、あれこれ物色する。面白そうな本はいくつかあったが、買おうとまで思わなかったので、そのまま退散。喫煙所を探してさまよう。

なんとか一服しているうちに、いい時間になったので、改札へ。けっこう安いらしい飲み屋へ行く。店に入ったのは14時30分くらいか。ついこの間まで同じ職場にいた友達なので、主にはぼくの職場についてのアンチコメントが飛び交ったのだった。

17時ごろ解散した。電車で久喜へ向かうが、立っているとふらついた。どこかの駅で座ることができたので、ギターケースと傘を膝に挟んだまま意識が飛んだ。新白岡で意識が戻ってきたので乗り換えには間に合った。

足利市駅まで行ってタクシーに乗ってもよかったのだが、雨が小降りのようだったので、福居駅で降りた。荷物の多さと足の不調でだいぶ歩みはのろくなってしまったが、20時には自宅に戻った。念のためギターをケースから出して、深夜まで横になろうと思ったら、そのまま翌日のお昼までワープしてしまった。

史上最長のGW日記#3

溝の口から大井町行きの最終電車に乗っている。呑みすぎたというわけだ。蒲田の父親宅に泊まる予定だが、父親が起きているのかもわからない。

起きたのは7時前で、福生の母親宅のことだった。母も祖父も起きてこないので、ひとりコーヒーを淹れて飲んだ。ら胃が荒れた。

身支度をしているうちに10時くらいになり、ちょちょっとギターに触ってから出発した。

12時前に溝の口に着き、ランチをハンバーガーショップでテイクアウトする。川崎の子ども会指導者の集まりのため、12時には会場へ。

その後、総会を15時から、懇親会を17時からこなし、20時から若手メンバーだけで2次会となった。

22時過ぎから2手に分かれての3次会が始まり、ぼくはカラオケに行った。カラオケとは現代人のドラッグなのではないか。不思議な中毒性がある。ぼくはたばこの煙で涙が出た。自滅である。

0時も過ぎて解散した。今ギターケースを膝に挟んで電車に乗っている。なさけない、かもしれない。帰るところがあるかないかという問題に不安になるが、ぼくがだらだらしていたせいだ。救いようがない。

史上最長のGW日記#2

福生にある母親宅に泊まっている。今日という日もまもなく終わる。

朝はまたもさっぱり起きられず、11時30分ごろ目覚める。出かけなくては。泊まりの支度を急いで済ませ、歯を磨きひげをそる。明日は少しマジメなカッコをしなくてはいけないので、ズボンとシャツをカバンに押し込んでおく。13時の電車に間に合うよう家を出る。

電車はGW効果でいつもより混んでいる印象。太陽がまぶしい。昨夜遅くまで飲んでいたために、体調はイマイチだ。久喜までうつむいて過ごす。JRはやはりそれなりに人が乗っていて、端くれで突っ立っていた。本を読むほど元気がなく、イヤフォンで音楽をきいていた。

新宿で乗り換える。トイレに行きたい気がするが、乗り継ぎをスムーズにしたいのでそのまま来た電車に乗った。立川まではわりとすぐだ。青梅線に乗り換えてしばらく走る。まだ青梅線の駅を覚えていないのですこし遠く感じる。

福生駅着。15時40分。朝からなにも食べていないので、エキナカの喫茶店に寄り、サンドイッチに食らいつく。そもそも早く来たのは、ギターを探すためだった。スマホで近くの楽器店を検索する。

楽器店へ。ゆるい上り坂の中腹にあるお店だった。中が狭そうで薄暗く、1度目はスルーして米軍基地のほうに向かった。ギター屋をもう1軒見かけたが、こっちはエレキメインっぽかったので、やはり1軒目のお店に行くことにする。少し回り道をしながら戻っていく。

お店に入ると男性2人が座ってギターを弾いており、ぼくはそれ以上進めなくなった。足場もギターケースとかで埋まっている。しばらく目を丸くして立っていた。奥のほうの人が店主らしく、声をかけてくれた。ぼくはクラシックギターはありませんかと尋ねた。中古でいいのかいと聞かれたので、中古でよいですと答えた。

奥から店主が年季の入ったクラシックギターを持ってきてくれた。試しに抱えてみる。ネックがフォークギターに比べるとだいぶ太いが、ボディーのサイズ感はいい感じだ。弦が一部張ってなかったり、弦高の調整が必要だったりしたので、しばらく待っていた。ちなみにぼくはクラシックをやるつもりがあるわけではなく、ポップスとかの伴奏がしたいだけなので、弦高は落としてもらった。カポタストは持参したバネ式のものがなんとか使えそうだ。

中古のハードケースも合わせて見つけてもらい、思ったよりだいぶ安く済んだ。ケースを引っさげて店を出る。その後駅の南側で母親にばったり遭遇した。そのまま一緒に酒屋に行き、ビールとウイスキーを買った。

18時ごろ母の住むマンションに着き、さっそくポロポロとギターを弾く。今持っているモリスのフォークギターより弾きやすいかもしれない。サウンドのまろやかさも申し分ない。いい買い物をしたと思う。

夕飯はすき焼き風鍋をつつきながら酒を飲んだ。昨夜も飲んでいたのだが。まあよいだろう。明日も飲む予定だ。明後日も飲む予定だ。

明日は子ども会の用事で溝ノ口に行かねばならない。本を読んで寝よう。

史上最長のGW日記#1

大した意味があるとも思えないが、長い連休なので日記でもつけることにする。今日はたぶんひとりで飲みに行ってしまうので、出かける前に書くことにする。

起きたのは11時台だ。本当は早起きして千葉県東金市まで自転車で行く予定だったが、朝方まで雨が降っており、サイクリングツアーは見送った。ぐずぐずとふとんにくるまっていた。

起きたはいいがなにもない。スパゲティをゆでる。コーヒーを呑む。新聞を読む。今月で平成も終わる。平成にネガティブな評価をする人もけっこういるみたいだが、ぼくは平成どっぷりの人間なので、平成は好きだ。名残惜しい気もするし、自分の青臭い時期もこれで終わるんだなぁという気もする。

昨日は帰宅後寝落ちしてしまったためギターを弾くことができなかった。今日は昼から弾いた。ジョン・レノンの Imagineを弾くこととする。はじめて弾いたのだが、夢中になっているうちに夕方までに楽譜を覚えてしまった。

午後2時から自転車で出かけた。レースを見据えたトレーニングだ。富田方面から根古屋森林公園まで。上り基調の道路をいつもならまあまあのギアをかけながら走れるのだが、とんでもない向かい風が吹いており、全く脚が回らない。ぜえぜえ言いながら、自分の弱さにがっくりした。

根古屋森林公園では早くも鯉のぼりがはためいていた。ぼんやりと傾きつつある陽の光をながめる。こういうとき、「人生もまあ悪くない」と思える。

帰りは追い風で軽く回しながら市街地へ戻る。そういえば一度もコンビニに寄らなかった。帰宅は5時少し前。ワイシャツを紙袋に押し込んでクリーニング店へ。

またギターを弾く。音楽コンプレックスを克服しようと躍起になっているのかもしれない。さりげなくピアノやギターをその場で弾ける人をうらやましいと思ってきた。まぁ、自分がそうなれるとは思わないが。

東京の西のはずれにいる母親に電話し、明日泊まりこむことにした。個人的には古着やらギターやらを物色しに街をぷらぷらしたい。

夕飯を牛丼チェーンSで食べる。作業着やスーツ姿の人もちらほら。

最近ひとり飲みに行っていないので、今夜は行くことにしよう。明日以降も飲む機会は幾度かあるので、飲んだくれの連休になってしまいそうだが、それもそれでよいだろう。

日記よさらば

思えば前のブログのとき、頑なに詩だけを投稿していた。今思うと大したものだ。毎日詩を書くのは大変だ。詩というスタイルに落とし込む手間もさることながら、精神的な疲弊も増す。その点日記は書きやすい。そんなわけでこのブログも駄文に満ち溢れている。

頭痛がする。月曜頭痛だ。明日には治るだろうか。事務所との相性がよくないのか人生との相性がよくないのかわからない。どちらも考えすぎだろうか。正直、新しい環境がほしい。

昨日マラルメの詩集を読み終えた。正直、フランス語でも1回目では「なんのことやら」と思う箇所がたくさんあるが、マラルメの凝り性と苦悩は垣間見ることができた。少し時間をおいてもう一度読みたい。

さっきまでシーカーズの「涙のカーニバル」を弾いていた。やはり名曲だ。ストロークのパターンがどうも詰まり気味なので、もう少しジャカジャカさせて力を抜きたい 。練習を続けよう。

夜は依然冷える。雨はやまない。何度紅茶やコーヒーを飲んでいることやら。体をあたためてがんばりたいが、すでにやられ気味であることも確かだ。やられ気味なのはいつものこと。やられ気味なのはいつものこと?

借りていたDVDを返してしまった。特に観るべき映画もない。チャウ・シンチー監督の「新喜劇之王」が観たいのだけれど、中華圏でしか上映していないようだ。早く日本でも公開してほしい。してくれないだろうか。映画を観に香港に行きたい気もする。昨日すっかり寝坊したので、東京への本の買い出しに行けていない。

日記よさらば、とある。ちなみにブログに書いているほかに、レポート用紙に手書きの日記も書いている。ので、ブログの日記を仮にやめてもわたしのなかでの日記が消滅するわけではない。日記のほうが更新の頻度が増えるし、詩よりも読みやすいかなと思って日記を多めに投稿しているが、わたしは日記を書く動機を見失った。しばらく日記はやめる。わたしは日記職人ではないのだ。

わたしはわたしの生活をわかりやすく紹介しようとは思わない。わたしの人生のディティールに、他人にとっての意味があるのかというと、おそらくないと思う。

わたしはまた愚直に詩を書いていきたい。意味がなくてもけっこうだ。「意味がなくてもけっこうだ」と返せる事柄に人は熱中すべきなのだ。

今再び問う

そういえば、昨年の春、わたしは仕事をやめようかと思っていたのだった。

10時から15時まで自転車に乗り、その後19時まで自転車屋にいた。帰ってきたのは19時半だ。小規模の峠越えを5本やり、体はすっかりお疲れモードである。月末にレースに出るかもしれない。出ないかもしれない。出るかもしれない。

牛乳を温めてカフェオレを淹れた。うまい。カフェオレは家で飲むのがいちばんいい。納得の味だ。

昨夜寝る間際に Renaudの Adieu Minetteのコード譜をネットで見つけ、さっそく今日弾いてみた。知っているコードだけで弾けたので、もう少し練習すればなめらかに弾けるだろう。

明日は雨らしい。そして東京マラソンとのことだ。東京に本を買いに行こうかと思っていたのだが、やめたほうがいいかな?マラルメの散文集と広東語のテキストがほしいのだけれど。

仕事を失えば不安な気持ちになるだろう。ならば失ってみるのも手ではないか。なるほど理由もなく仕事をやめることは理にかなってはいない。ならば尋ねるが仕事を続ける理由はなんだ。不安な気持ちにならないためか。

今のわたしにとって職場とはバーチャルリアリティーのようなものなのだ。わたしはバーチャルリアリティーのなかでの処世術ばかり身につけているが、いったん職場を離れればまったくの無力であろう。

わたしは自分が無力であることをかみしめたいのだろうか。わけがわからない。わたしはなんでもやりたいという類の人間ではない。わたしはいやなことが多いので、なるべくなら自分のすることは絞りたいのである。

わたしは仕事自体に興味はない。わたしの興味など、仕事をするうえではいちいち相手にしていなかったが、思えばわたしは興味のないことをやり続けているのだとも言える。

わたしは仕事が大嫌いである。なぜなら仕事をしたくて仕事をしていることはほとんどまれで、大体の場合はその日仕事をすることになっているから仕事をしているだけだ。仕事はわたしの気分を問題としていないのだ。

給料とはそのようにして得るものだというご意見は、現状において的確である。しかしそれは現状を的確に捉えているだけだ。わたしは個人の目線で話がしたい。わたしは1人の労働者であるが、わたしはわたし自身を1人の労働者として扱っているわけではない。わたしはただのわたしである。

最低限の話として、生活費を稼ぐことというのが、大人の人生のスタートライン、なのだろうか。「生活費を稼ぐこと」から考え始めると、わたしはつまらない思いにとらわれる。わたしの気分のなかでは、生活費を稼ぐことはわたしの気分に訴えるものではない。

暴論かもしれないが、お金よりもわたしの気分を優先していきたいのだ。気分がのらないことを無理して続ける必要があるのだろうか。お金のことを考えていてもお金は動かない。お金とは実体のないものだから。

わたしはつまらないことが嫌いだ。つまらないことをするくらいならなにもしたくない。なにもしなかったら死ぬぞと言われたら、おもしろい死に方を考える。

Helpless Man

コーヒーを呑んでいたら23時30分になっていた。今から3時間30分勉強をしたとすると、夜中の3時になってしまうが、そこまでしたら翌朝起きられないだろう。

22時過ぎまで映画「カンフーハッスル」を観ていた。とてもよかった。プロットはシンプルだが、肝心なところを押さえているならばシンプルでもグッドだ。子ども心をくすぐるなにかがこの映画にはあると思うが、そもそも子ども心というものは子どもに限定されるものなのかということを疑問に思った。監督・主演のスティーヴン・チャウはぱっとしない青年役を演じるが、この映画の撮影時に、彼は青年と呼べる年齢ではもうなかったはずだ。

話はぼくのことに戻るが、昨夜は珍しく父親が足利まで来て、一緒に夕飯を食べたあと、父は帰路につき、ぼくはバーに居座って飲み続け、結局帰宅したのは3時ごろだ。

今日はまったく起きる気がせず、起きたのは15時だ。16時から17時まで罪滅ぼしに自転車に乗った。その後喫茶店に行き軽く夕飯を食べ、DVD3本を借りて戻ってきた。それで「カンフーハッスル」を見ていたというわけだ。昨夜バーでコーヒーを頼んだら、電動のコーヒーミルが動かず、コーヒーを飲めなかったので、今日は風呂上りに自分で豆を挽いて淹れた。

2週連続の土曜出勤はさすがにこたえたみたいだ。こたえたみたいだというより、いやだったというのが正確かもしれないが。来る水曜日はお休みなので、そこで休みたい。休みたいというか自転車に乗りたい。

むなしい気持ちになるときがある。ほぼ毎日だ。昨日より今日はよくなるものだろうか。昨日より今日はひどくなるものだろうか。今日は昨日と同じだろうか。クオリティーオブライフ。人生のクオリティーってなんだ。

明日への不安。明日へのわくわくより明日への不安のほうが大きい。うーん、そんなに不安になることがあるのかな。ただぼんやりとした不安、というやつ?根拠のないわくわくに懸けてみたい。

相変わらず夜は寒いけれど、だんだん暖かくなるだろうから、ぼくのノーエアコンライフも苦しい時期を終えるだろう。会社の同僚が来月で会社を leaveすると人づてに聞いた。あれこれ話をしていただけに、すこしさみしくなるが、ぼくはぼくで、ぼくのペースで生きていきたいと思う。人にはそれぞれ、「やめどき」というのがあるのだと思う。

なにも本音を言いたくないという本音。「だれにもわかってもらえない」というぼやき。コミュニケーション不足?ぼくは脇役。ぼくは脇役。いやむしろ舞台上にすらいない。でも観客ではない。ぼくは外でなにもしないやつ、そんなやつ。

Always Feeling Sick

ネカフェにいる。作業をするために来たはずだが、今のところ、ポッドキャスト視聴、夕食、喫煙を楽しんだだけである。

たばこを吸うときにいつもほとんどいつも後ろめたい思いがする。もっと言えば、「たばこを吸う自分なんてくそだ」と思うのだが、自己嫌悪に陥りながらたばこを吸うのは不健康だ。吸うなら「ま、吸いたくなるときもあるよね」とのんびりかまえて吸ったほうがいい。

今日の朝はあまり早く起きれなかったので、必要なルーティーンのみこなして家を出た。昨夜弦を張り替えたギタレレを持ってオフィスに行った。オフィスもスーツもあまり好きではないのだが、なにかいい代替スタイルがあるのかというと、無職になる以外に思いつかない。好きな恰好をして好きな時間に仕事をして十分なお金が稼げるのなら、それは almost heavenな気がする。かつてぼくは「自分は給料をもらいすぎている」と思っていたくらいにはお金が嫌いだったので、今の自分が「あぁ、給料が安い、金がほしい」と思うときに、過去の自分の考えを思い出して笑ってしまうことがある。でも過去の自分も正しいし、今の自分も正しいのだと思う。

帰り際に、「これ以上(顧客からもらったドキュメントを)読んでいたら病気になってしまう」と冗談を言ったら、隣から「もうすでに病気じゃん」と突っ込まれた。なるほどぼくはすでに病気で、思い起こせばいつも病気なのだ。

自分の立ち位置を他人と比べる必要はないと思っているが、自分という人間は、時に自分より力のある人間から抑圧を受けていて、時にその恵まれた環境にあぐらをかいて自分より弱い立場の人間を罵倒していることがあるのだと思う。たまには周りを見渡す態度も必要だろう(あれ、矛盾?)。なにもかもあたりまえだと思っていてはいけない。無理にがまんすることはなるべく避けていいと思うし、逆に軽はずみな気持ちで周りの人にいやな思いをさせているのなら、そういった行為は慎むべきだ。

今日は3時間勉強するつもりであったが、無理ゲーな感ありだ。一体なんのために勉強などしているのだろうか。昼間に睡魔に襲われてまで。フランス語の詩を読むためか。ドイツ語の哲学書を読むためか。自分に合う英語の本を読んで頭を休めるためか。いつかコーランを読むためか。I don’t know why.

夜は冷える。起きているだけでもちょっとつらい。昼間がここのところ、だいぶ春っぽくなってきたので、すこし救われた気がしている。ぼくは夏が嫌いなのだが、とりあえず春には来てほしい。花見に行きたい。一緒に花見に行きたい人がいる。

家では特に歌う以外に言葉を発しないが、オフィスではぶつぶつ色々話しており、最近自分の言動にますます皮肉が増え、下手をすると嫌味ばかり言っている気がする。困ったな。困っているから嫌味を言っているのかな。他人のことをばかにしているのかな。ひとりえらそうにしているのかな。恵まれた環境にあぐらをかいているのかな。ある程度はそうなんだろうな。

「おまえには地獄がお似合いさ!」

「おまえは地獄というが、早計だよ。このビルは何階建てだと思ってるんだい。地下1階くらいで文句を言ってもらっては困るね。」

いったいなにがしたいんだろうな。こういう問い自体が間違っているのかもしれないけど。すでにやることはやったのかもしれない。だから「飽きちゃった」のかもしれない。でもここで「増やすな。捨てろ。」の精神が正しいのかもわからない。捨てるならアパートと自転車とギターと本とたばこと酒を捨てる感じになり、それはそれで心痛むけれど、「それで?」という気にもなる。そんなに人生とはユニークなものだったのだろうか。生きて死ぬということは誰にも共通なことなのではなかったか。

I always feel good. 本当?アラビア語では、元気ですと言うとき、「神様のおかげで」というふうに表現するのだが、「神様のおかげで」と切り出すのなら、ぼくもきっと「元気です」と言うと思う。ぼくが元気がないと言っているのは、あくまでぼくの目線から言っているだけであって、ひとりの人間として元気かどうかと問われれば、「いやまぁ、元気だけどさ、元気だけどね、元気なんじゃない」というような答えになると思われる。